毎日の習慣や哲学の実践をつづる40代ブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けている40代です。

瞑想により主体的自己を作る。対象や他者を観る・分離する

瞑想をはじめておよそ2か月がたったわけですが、なかなかうまくいっているように感じていません。そこで、自分が瞑想によって何をやろうとしているのか、見直しをしてみました。

 

瞑想をするときは、静かに目を閉じて、呼吸に集中するようにして、自分の内側を観るようにしています。内観しているという事でしょうか。脳のモードとしては、サリエンスネットワーク(SN)のモードになるように、自分の内面を、客観的に、ただ観ようとしています。瞑想では、このSNの脳モードを維持しようとトレーニングしているような感じです。

 

一体、SNの脳モードに維持して、自分は何をしようとしているのか。この事について考えてみたのですが、結論から言うと、「主体的自己」を作ろうとしているのではないか、という事です。今回は、瞑想により、主体的自己を作る、という事についてお話ししたいと思います。自分の中の対象や他者を観るという話と、対象や他者と自己を分離する、という話です。

 

瞑想をしていると、”思考や記憶の断片や雑念”に自分自身がまみれてしまいます。一方、SNの脳モードに自分を置く事によって、”客観的に自分を”観ようとしています。この事についてもう少し吟味してみます。この思考や記憶の断片や雑念とはないか、というと、自分の中の何かです。また、客観的に観ようとしているものも、自分の中の何か、です。つまり、SNの脳モードから観ようとしているものは、自分の中の自分の一部です。そして、SNの脳モードから観ようとしている主体は何かというと、自分自身ですから、”自分自身”が、”自分の中の自分の一部”を観ようとしている、という事です。この”自分自身”が主体的な自己、”自分の中の自分の一部”が客観的な自己、という事になるでしょうか。

 

実際、瞑想をしていると、このSNの脳モードの在りかというのがよくわかりません。それより、観ようとしている対象は、客観的な自分の一部である他者のようであり、その対象や他者を観ようとする事は出来るように感じます。このプロセスを考えると、まず、主体的な自己の在りかは定かではなく、むしろ、自分の中の自分の一部である対象や他者を客観的に観ようとする事によって、それを鏡のようにして反映して、主体的な自己が立ち現れてくる、という感じがします。つまり、”自分の中の対象や他者を観る事によって主体的な自己が作られる”のではないか、という事です。

 

次に、思考や記憶の断片にまみれている時というのはどういう事でしょうか。思考や記憶の断片というのは、ここで言うところの、自分の中の対象や他者のようなものだと思います。そして、まみれているものは何かというと、主体的自己という事だと思います。そう考えると、自分の中の対象や他者に、主体的自己がまみれているという事になります。そして、その状態は、対象や他者と自己が不明確になっている状態であり、感覚的に、瞑想が上手くいているように感じません。この事から、どうなったら瞑想が上手くいっていると思っているかと言うと、対象や他者と、自己が、明確に分離している状態です。つまり、瞑想では、”自分の中の対象や他者と主体的自己とを、明確に分離しようとする”、という事です。

 

最初の、”自分の中の対象や他者を観る事によって主体的な自己が作られる”の話から考えると、つまり、瞑想では、自分の中の対象や他者を客観的に観る事によって、それらと主体的自己を明確に分離し、その事によって、主体的自己を作ろうとしているのではないか、と考えられるように思います。

 

ここでお話しした、主体的自己を作るというのは、内省により、自己理解を深めて、自分に対するメタ認知を高める、という事と同じ事のように思うので、瞑想によりこれを実践していく事はやはり良いように思えます。

 

このように考えると、瞑想では、呼吸であろうが、思考や記憶の断片であろうが、雑念であろうが、自分の中の何かを客観的に観ようとする態度を続けていく事が、実践として良いのではないかと思います。またしばらく、このような意識で、瞑想を続けていきたいと思います。