40過ぎでも進化する為の実践ブログ

りべしんと言います。40半ばを迎えたサラリーマンが、今からでも進化できると信じて日々考えて実践している事を書いています。

主体的自己を作る。対話とマインドフルネス。

生きていく中で、人間は主体的な自己を作っていく事が大事と思います。今回はそういうお話をしたいと思います。

 

人は元々産まれてきた時、主体的な自己を持っていません。発達の段階で、少しずつ主体的な自己が育ってきて、自分らしくなってきます。親や周りから見ても、その子はその子らしさを示すようになると思います。その意味で、人は主体的な自己を発達とともに大人になるまで身につけていくと言えます。

 

ですが、主体的な自己の発達は、子供の時代だけで終わりません。大人になってからもずっと続いていくと思います。ある意味、死ぬまで続いていくのではないかと思います。現に、自分自身の事を考えても、いまだに主体的な自己は改善され、変容しているように感じます。

 

何故、主体的な自己を作っていく事が大事なのかと言うと、そもそも人間は(あらゆる動物は)、「私」や「自分」、「自己」というものが無いからだと思います。(と言いながら、「自分」という言葉を使用しますが)自分の人生が進んでいく中で、時折私とは何者かという問いを自分自身に向けてきましたし、自分自身の主体性が十分でないと感じたとき、社会的な何者かに当てはめようとしてきたと思います。そのような色んな過程を含めて、自分自身の人生での経験や記憶の歴史を同一線上に配置して、今と過去の自分を結び付けて、また、自分自身を社会的なものとも結びつけながら、自己を認識してきたと思います。実際、「私」や「自分」というのは、そういうものだと思います。

 

自分の頭の中には、色んな記憶や経験に基づく何かしら、自分自身の身体、外見も含めて、匂いや味や人間の好み、感覚、感情、様々なものから成る世界が広がっています。その自分の世界の中に自分を見出し、認識するわけですが、それが見出せなかったり、認識できなかったりすると、自分自身が頼りなく不安定なものになってしまいます。だから、時折、主体的な自己を形成させる事が必要になるんだと思います。

 

自分自身の心から生まれたネガティブな感情によって、寂しくなったり不安感に苛まれたり孤独感を強く感じたりすると、その状態が煩わしく不快で耐えられなく感じます。そして、何とか自分自身を安定させようと、もしくは、安心させようと、自分から遠いものや社会的なものや他人から自分自身を成り立たせ、埋め合わせようとします。ですが、なかなかうまくいきません。

 

だから、自分で自分自身に問いかけていくのが大事なように思います。自分の事を最もよく知っているのはやっぱり自分であるし、その自分に向き合って、自分が何を求めているのか、何が好きなのか、何を大事にしたいのか、理解してあげる事が大事になるように思います。

 

そうすると、やっぱり、自分と対話をする静かな時間を作る事が大切だと思います。心の状態を落ち着かせて、マインドフルな状態にして、自分自身に自分で向き合って、自分を客観視していく。

 

仏教関連の本を読んでいると、自分の中に2人の自分がいるという事がよく出てきます。私の感覚では、自分という主体性は基本的に無く、自分とそれを観る自分が幾重にもなっていて、入れ子構造になっているように思います。でも、そうやって、自分自身を見立ててその自分を客観的に観るように自分を置いて対話して、とやっていると、木の年輪のように自分自身が積み重なって内側から形成されていくように思います。観念的な話で、比喩的な表現しかできませんが、そういうような感じで主体的な自己を形成されていくように思います。

 

時折、自分自身と向き合って、静かにマインドフルに対話して、主体的な自己を作っていく。他の何かしらで自分を埋めようとせず、そうやって自分で自分を大事にしていく事が大切だと思います。

哲学が好きな理由。思考による快。

人は、基本的に、脳内で快不快の世界を生きていると思っています。快とは、身体的快感、美味しい、心地良い、気持ち良い、快適から、精神的な快、嬉しいとか、楽しいとか、喜びとか、愛おしい、また、安心感、安全感、など色んな快があると思います。また、不快とは、快とは逆の方向で、身体的苦痛、精神的苦痛、苦悩、不安、憂鬱、苦しみ、つらさ、イライラ、憎しみ、これまた色々あります。そして、人間にとって、快より不快の方が敏感なように思います。快は心地良いからそのまま放置してよいですが、不快は煩わしく耐え難いので、そのまま放置するわけにはいきません。

 

思考は、私にとっては、この脳内の不快感を解消して、不快感の問題を解決し、快をもたらしてくれる最良のものだと感じています。基本的に、哲学するとは思考する事と言えるので、思考による快により、ずっと哲学し続ける事が出来ると思っています。もちろん、哲学する事が簡単だとは思っていませんが。

 

脳内の不快に関して、その煩わしさが昔からつらく嫌で、その絶え間ない不快感によって体調を崩す事もあったように思います。思考による快に基づいたというより、不快を思考により脱するという事に基づいたという感じで、それにより思索や哲学する事が癖になっていったように思います。そして、不快→思考→快という繰り返しにより、それが習慣化して、思考する事が趣味みたいになったんだと思います。ただし、頭の痛い、頭の疲れる習慣ではあります。

 

また、昔から勉強する事は好きなわけですが、思考する事が習慣になったから勉強する事が好きになったからか、そもそも勉強をずっとしてきたから思考する事が好きになったのか、どちらは分かりません。いずれにしても、勉強する事が思考する事に、思考する事が勉強する事に役立っています。

 

人の思考様式は、その人の言語の使い方、言語の表現方法、フレイズ、と言った言語様式に依存するように思います。思考と言語は強く結びついています。方言や、その地域や時代の話し方、家族の話し方なども、かなり思考様式に影響するように思います。また、思考は、快不快を伴いながら行うので、思考する事の繰り返しにより、感覚や感情と思考が神経レベルで連合して深く結びついていくとも思います。そのような感じで、思考様式はパターン化されがちなので、いつもの思考によっていつもの解決案や結果に陥りやすいため、自分の思考様式や言語様式は常に改善する必要があると感じています。

 

そういう意味で、言語は、思考する事、哲学する事にとても重要です。そして、ブログは、言語を活用して文章化されたものという意味で、自分にとってとても大事です。このブログは自分の思考の実践であり、プロセスであり、産物でもあるので、自分にとってとても重要なプラットホームです。

 

このブログを毎日書き始めて8か月ほど経ちましたが、これから先も相変わらずブログを書き続けていけたらと思っています。

人間は脳内の快不快の世界を生きている。思考とマインドフルネス。

どうにも、自分の脳内では、ミクロでランダムで、でも、ある種関連性のない、絶え間ない快と不快があって、自分はその中を生きているように感じます。快の感覚は良いのですが、不快の感覚は非常に煩わしく、この不快をどう対処していくか、この事に多くの時間と労力を費やしているように思うのです。こういった事は、自分だけでなく多くの皆さんもきっと同じだろうと思います。

 

快不快に振り回されて生きている、と言うと、そんな生き方で良いのだろうかと考え込んでしまいますが、むしろその事をそのまま認めた方が自然ではないだろうかと感じます。自分は、快不快の世界を生きている、と。

 

これまでの人生での様々な経験や記憶に基づいて、色んな種類の快と不快が脳内にあって、快の感覚は心地良く、喜びでもあるので、それを放っておくことはできますが、不快は煩わしくそのままに放っておくことに耐えられないので、いつもこの不快をどうするか、が問題になります。不快は、嫌な事、恐怖や不安、憂鬱感、絶望感、焦燥感、精神的苦痛、ストレス、つらさ、苦しみ、なども色んな表現のものがあります。

 

仏教では、苦しみを人間にとって根源的なものとしていますが、確かにその通りだと思います。人間が動物として生きていくうえで、快はそんなに問題にはなりませんが、不快は生き死に関わる危機的状況なので、すぐに対処しなければなりません。ただ、現代社会では、昔ほど危機的状況ではないので、むしろ絶え間ない不快がかえって煩わしいものに感じられます。

 

なので、この脳内に絶え間なく湧いてくる不快に対して、思考によりどうするか、という事になります。これらの不快感に、分からないもの、未知なもの、不可解な事、それらも含まれます。何故そうなっているのか分からない、このような不明さは、脳内ではそのままで放っておくことが出来ません。なので、この不明なものの正体についてあれこれと思考して解答を見つけ出そうとします。そして、その解答に辿り着いたとき、不快感が解消されて快がもたらされます。この、思考による不快の解消が、ひとつの快だと思います。いかに、思考によって不快を快に転換していくか。

 

また、不快の問題は、その不快感が耐えられず、その不快をどうにかしようと、自分を取り囲む環境や周りの人に影響を与えてしまう、当たり散らしてしまう、というものです。それにより、自分の不快感が解消されると快がもたらされてしまうと、不快の快への転換の仕組みを覚えてしまいますので、人間はそれを自然とやってしまいます。ただ、それを放っておくと、人間社会は大変なままになってしまいます。思考をいかに正しく使うか、とても大事です。

 

人は、人生を経ていく中での経験や記憶の蓄積によって、自分特有の不快や快、思考を身につけていきます。快も不快も人それぞれ、思考様式も人それぞれです。不安や不明な事に対して、どのような問いをするか、それは思考の出発になります。また、自分に対して投げかける言葉のフレイズ、言語表現は、記憶学習によりパターン化されていますから、パターン化したいつもの思考様式だと、不快が一向に解消されないかもしれません。ですから、自分の思考様式を支える言語様式を、より良く修正していく事が思考をより良いものにしていく為には大事だと思います。

 

また、思考をより良く行うためにも、マインドフルネスの状態は大事だと思います。不快な事が脳内に現れて、無意識に焦って対処してしまうと、逆に余計な事をしてしまったり、不快を増幅してしまったり、周りの人を傷つけたりしてしまいます。なので、マインドフルに心を落ち着かせて、不快な事を観て、認めて、受け入れる。そして、不快の原因についてマインドフルにゆっくり考える、とても大事だと思います。すぐに不快な事が解消できない時はとりあえずそのままにしたり、解消できそうなときは解消する方法を思考に模索したり、落ち着いて対処していく事が大切だと思います。案外、マインドフルネスにより冷静に正しく思考すれば、多くの不快は解消されて、快に昇華されていくと思います。

 

人間は、快不快の感覚の世界を生きていると思います。動物みたいで嫌だと思うかもしれませんが、人間は基本的にそのような感覚世界を生きているという事を認めた方が良いと思います。その上で、思考をより正しく活用する事が重要で、その為にも、マインドフルネスな心の状態に持っていく事がとても大事だと思います。

長寿命化とは「長く生きる」という事ではなく、「ゆっくり生きる」という事

昨今、長寿命化が話題になっています。高齢化問題や少子化問題は日本社会にとって大きな問題になっています。そのような国家の問題はさておき、長寿命化に関して考えてみたいと思います。

 

人は、長寿命化によって、長く生きられるようになった。この事は、人にとっては良い事でもあり、見方によっては悪い事でもあります。良い人生の場合はそれでよいですが、良くない人生は長すぎる人生は辛いからです。

 

例えば、平均寿命と言うものを考えた場合、男性の1970年の平均寿命は69.31年、2020年の平均寿命は80.93歳と算出されています。だいたい1.2倍寿命が伸びています。女性も似たような数字です。感覚的には、90歳を超えて生きている人が周りにいっぱいいますから、大きなトラブルが無かったらもっと長生きするように感じます。

 

70年生きていた時代から90歳まで生きられるように考えた場合、現代の人は、50年前の70歳までと同じように70歳まで生きて、あと20年が足された。このように捉えるでしょうか。自分は、何か違うように感じます。

 

そもそも、ただ単に長生きしたい、と考えるのだろうか、とも思います。充実した人生を、長くいきたい、とは思います。

 

人の一生と考えたとき、時間的に長く生きようと短く生きようと、そんな事よりも、充実した人生を生きる事の方が大事です。人の一生を基準に考えると、70年も80年も同じです。時計の時間や暦の時間で70年と80年は1.2倍も違いますが、人の一生を基準にした場合、同じです。人の一生を基準にした場合、相対的には、時計の時間で70年と80年を比較すると、1.2倍”ゆっくり”生きたという事になります。

 

そこで、以下のような定式を考えます。

 

絶対時間(t)=時計の時間、暦の時間、太陽系や地球の時間

相対時間(t)=人の体験する時間、生きていると感じる時間、活動している時間

 

そして、速度についても以下のように考えます。

 

絶対速度(v)=時計の速度、暦の速度

相対速度(v)=人間の体験する速度、生きていると感じる速度、活動中に感じる速度

 

そのように考えると、絶対時間としての寿命は、20年長くなったが、人の一生という意味での相対時間としての寿命は変わっていない、というように考える事ができます。

 

逆に1日に関して考えるこうなります。絶対時間としての1日は寿命が長くなっても変わらないが、相対時間としての1日は短くなった。1時間に関しても同じです。絶対時間としての60分は相対的に10分ほど短くなったと感じられるわけです。絶対時間として60分は、70分かけて過ごして良いのです。

 

長寿命化したおかげで、70歳から80歳に10年長く生きられるようになったと考えるのではなく、ゆっくり生きていけるようになったという事だと考えた方がしっくりきます。

 

1時間1分を慌ただしく、無意識に生きるのではなく、丁寧にゆっくりその一瞬一瞬の体験を味わい尽くすように生きる、体験し尽くすという事です。

私の頭痛の原因。運動不足・睡眠不足・悪い姿勢・考え過ぎ

また、頭痛がやってきました。たまにやってくるので慣れているのですが、頭痛になるとつらいし他の事が手につかないので、本当に煩わしいです。

 

そこで、私自身が思う自分の頭痛の原因についてお話ししたいと思います。

 

まず、運動不足です。毎朝テレビ体操をやっていますが、これは頭痛を軽減させるために始めました。テレビ体操をする以前までは本当に頭痛に悩まされていて、悪い時は吐き気も伴っていました。医者から運動不足が原因だと指摘されたのを機にテレビ体操を始めたところ、頭痛が劇的に減ったので、それ以降続けています。最近はGWで家の中で過ごすことが多く、またあまり動かなくなってしまいました。なので、頭痛がやってきたんだと思います。

 

そして、睡眠不足です。睡眠時間や睡眠の深さが足りなかったりすると、頭痛が治りません。逆に言えばしっかり睡眠がとれれば、翌日には頭痛は消え去ります。頭痛の原因は血行不良や頭の疲れだったりするので、しっかり寝る事でそれらを改善すれば治るという事です。ただ、運動不足の日が続くと、身体があまり疲れず、寝る習慣が崩れてくるので、運動不足と睡眠不足でセットで対処しないといけないと思っています。

 

あと、私の場合明らかなのが、悪い姿勢です。パソコンのディスプレイをずっと見ているときに首がストレートネックになっていて、その事に気付かない事が多いので、気が付いたら頭痛の原因を作ってしまっています。また、ブログやイラストなども毎日書いていますが、これらに取り組んでいる時の姿勢も悪く、猫背だけでなく、肩や首回りが緊張して力んでいたりします。ゲームをするときも同じです。私はソファに座ってゲームをやりますが、その座り方の姿勢が悪く、ゲーム中は緊張もしていて比較的長時間になってしまうので、明らかな血行不良の原因になります。また、勉強中の姿勢も問題です。勉強するとき、テキストを読んで学習している事が多くて、その時の姿勢が悪いと、長時間集中して緊張しているわけですから、血行不良を引き起こして頭痛の原因になります。

 

もう一つ付け加えると、考え事が多い、という事があります。勉強にしろ、自分自身の悩みにしろ、考え事をしていると、頭を使うこと自体が頭痛の原因にあります。目の上の奥の部分がきつくなってきます。考える事に夢中になりすぎる事は、上で話した姿勢の問題にもつながりますし、長時間思考し続けていると、本当に頭というか、目の付近や奥の方、脳の前頭葉の部分がきつくなってきます。最近は、画像解析など頭痛に関する脳神経科学的な研究が進んでいますから、それらの発展に期待です。

 

今のところ、私の頭痛の原因の傾向は把握できています。いつも、上に挙げたような事で、それらが複合的に組み合わさった時です。今はGWで、通常とはライフスタイルが変わっているので、少し調整しないとな、と思っています。

つらさの感覚に縛られる。マインドフルネスで認知を修正する。

何気ない事で、日々自分のつらい過去や今のつらさ、未来に予測される不安や辛さに苛まれるという事はあると思います。今考えてもしょうがないと分かっていても、それに捕らわれてしまって、その事でさらにネガティブな感情に陥ってよりつらくなっていく…。

 

そういう時はやっぱりマインドフルネスな瞑想が良い。そういうお話です。

 

私は、時折朝からつらく感じる事があります。未来の不安に対しての事もあるし、最近の事に対しての事もあります。色んな種類のものがあります。でも、それらのつらさに振り回されていても、それでそのつらさを解決する事にはならないし、むしろその事をいますぐ無理に解決しようとせずに、冷静にその事実を受け止めて、時間をかけて、解決していった方が良いと思っています。また、そのつらさに振り回されて生活が不安定になるくらいなら、むしろその事から気をそらせて、元気になってから、気力のある時にゆっくりと対処した方が良いように思うくらいです。日々あまりにつらい感覚に振り回されていると日常を上手く回せていけず、結果的につらさが一向に軽減していったり解決に向かったりしていかないからです。

 

私は普段から毎朝瞑想に10分程度取り組んでいます。もうすぐ5か月継続したことになりますが、瞑想をする習慣が身についたように思います。朝は会社に行く前の時間なので相変わらず散漫で雑念が多いですが、心を落ち着かせようとする癖はついたように思います。

 

決まった朝の時間だけではなく、必要だと思ったときは、すぐにどこでも呼吸に集中して数分でもやるようにしています。

 

瞑想では、呼吸を利用しながら心を落ち着かせるようにします。そして、つらさの感覚を客観的に冷静に観る、気付くようにしています。そういう、自分の感覚や感情を客観的に観る姿勢が、とても重要です。マインドフルネスは、心が凄く落ち着いていて、自分の感覚、感情、状態を、冷静に注意を向けている状態です。ぼんやりしているのではなく、冷静に集中できています。その脳の状態を、サリエンス・ネットワーク(SN)と呼ぶようです。通常の無意識の状態は、デフォルトモード・ネットワーク(DMN)と呼ばれていて、つらさの感覚があるときは、無意識にそのつらさに捕らわれているような状態です。ですから、そのつらい状態を放置せず、脳をSNの状態にして、客観的に気付くようにするという事です。

 

そのように、客観的に自分のつらさの感覚に向き合えれば、そのつらさを少しは受け止める事ができます。そして、この辛さの感覚に対して、その原因を認識したり、対処する方法を冷静に考えたり、今は対処は難しいから時間をおいて別に時間に考えようと決めたり、など、意識的に認識し判断する事ができます。こういうモードをセントラル・エグゼクティブモード(CEN)と呼ぶようです。

 

マインドフルネスな状態はSNの脳モードに相当し、このような対処を落ち着いてしやすい状態です。マインドフルな状態に持っていく事で、自分のメタ認知を高めて、自己理解を進める事ができます。そうやって、つらさの感覚による認知を上手く修正していければ、つらさに振り回されずに落ち着いてやっていけるようになります。

 

つらさの感覚にとらわれると本当に煩わしく、より良い判断が出来ず、上手く生きていけません。なので、瞑想などを取り組む事によってマインドフルネスな状態をいつも作れるようにして、自分の認知を修正していく。そうしていく事で自分の人生を、少しずつ進めていく事が出来ると思います。

マインドフルネスの観点で習慣の振り返る

色んな習慣に取り組むとき、それらの習慣のプロセスをマインドフルに取り組めているのだろうか。今回は、自分がいつもやっている習慣について振り返りをやってみたいと思います。

 

マインドフルネスは、頭が忙しく周りの事に気が散っていて落ち着かない状態、無意識な状態とは逆です。それはマインドレスな状態です。そうではなく、凄く落ち着いていて、ただ自分も周りも観ているような状態です。心に余裕がある状態ですから、何に対しても取り組む準備が出来ているような状態です。頭の意識はしっかりしていますから、目の前の取り組む事にも、冷静に集中している状態です。そのような意味で、習慣に取り組むときは、マインドフルな状態が良いのではないかと思います。

 

私は、毎日決まって、ブログ、テレビ体操、スクワット、英語の本読み、瞑想、イラストを習慣として行っています。それらについて見ていきたいと思います。

 

まずブログです。ブログを書くには、考えながら書くという事に集中できていないと書けません。他の事を考えていて散漫になっていると書けません。また、書く事がある程度決まっていないと書けません。書くときのアイデアが無い時は、少し瞑想をしたりします。心を落ち着かせて逆に無理に何かを考えようとしないようにします。そして、落ち着いてきたら最近気になっていた事、大事だと思っていた事、色んな事を思いめぐらせます。そうやっていると、いつも一日の中で色んな事を考えていますから、アイデアが自然と湧いてきます。そういう意味で、ブログを書くというのは、比較的マインドフルな状態になっているように思います。

 

次に、テレビ体操です。テレビ体操はただテレビをつけて、テレビを観ながら10分程度体操をするだけです。身体を動かすことが基本ですから、そんなにマインドフルでなくても出来るように思います。ただ、体操が面倒くさくて、体操を終わらせることばかり考えていると、体操自体が嫌になる事があります。そういう風にならないように、出来るだけ体操に集中するように心がけています。その意味では、身体を使う事がメインで簡単とは言え、よりマインドフルに取り組んだ方が体操もやり易いように思います。

 

そして、スクワットです。スクワットは、朝シャワーを浴びる前に1分程度行っているものです。10回とかそれを少し超える程度です。シャワーの水がお湯に切り替わるまでの短い時間ですから、実践は簡単です。マインドフルな状態を意識的に作っているようには感じません。時間も短いですし、お風呂場という他に何も無いお風呂の為だけの環境ですから、スクワットに集中しやすいのかもしれません。

 

その後は、英語の本読みです。30分程度英語の本を読んでいます。最近、声に出しながら音読する事が多いです。それは、英語の発生が心地良いというのもありますが、発生する自分の声に自分自身の注意がもっていかれて、集中が持続しやすいからだと思います。30分も英語の本を読むのは、単語も所々分からないですし、簡単な事ではありません。だから、極力集中できるようにしているんだと思います。また、英語の内容を理解しようとしているので、自ずと集中します。ただ、本の内容が面白くないと集中は難しくなります。そもそも、英語の本読みは、散漫になっていると読めませんから、よりマインドフルな方が上手くいくように思います。

 

朝は、瞑想も行っています。10分程度です。これ自体、マインドフルネスを目指しています。仕事に行く前などは、仕事の事で頭が落ち着かず、逆にマインドフルな状態にするのに苦労していますが、やらないよりかはやった方が、マインドフルネスに取り組む訓練になりますし、一日の生活全般をマインドフルな状態にする意識が高まって、役に立っているように思います。

 

夜はイラストです。描くイラストが決まるまではあれこれ考えていますが、それがだいたい決まると、あとは描く事に集中します。描く事自体は楽しいので集中しやすいです。また、私の描いているイラストは、完成形は成り行き任せみたいなところがあって、描きながら仕上がっていくので、描くというプロセスに意識が集中して、プロセスそのものを楽しんでいる感じです。イラストとマインドフルネスとは、相性は良いように思います。

 

こうやって自分の習慣を振り返ってみると、習慣を取り組んでいくには、マインドフルネスな状態の方が良いという事がよく分かります。体操やスクワットなど、身体がメインの習慣はよりマインドフルでなくても取り組めますが、それでもやはりマインドフルである方が良さそうです。