40男りべしんの、より良い人生を目指すブログ

りべしんです。40半ばを迎えたサラリーマンが、より良い人生を目指して日々やっていることをお話ししたいと思っています。

どんな時でも自分で自分を肯定していい理由

人間生きていると、何か辛いことがあったり、辛いことを抱えていたり、そして、辛いことを思い出したりして、自己卑下に陥ったり、絶望したりしますよね。そういう時って本当につらくて苦しいと思います。でも、基本的に、人は、どんな時でも自分で自分を肯定してよいと思います。その理由について、考えてみたいと思います。

 

まず、この事を考えるにあたり、肯定するとはどういう事かについて考えてみましょう。「肯定する」の反対語は、「否定する」です。自己肯定と自己否定は、対になっています。肯定は良くて正しく、否定は悪くて間違っているという関係です。肯定は認められる事で、否定は認められない事です。つまり、肯定するとは、肯定するその対象はそのままで良くて正しくてそのままで認められる状態で、否定するとは逆にそのままでは悪くて間違っていて認められない状態です。人を肯定するといった場合は、その人は、そのままで良くて、正しくて、認められる人の事を指します。肯定するとはそのような意味になります。

 

では、何故自分は自分を肯定してよいのでしょうか。それは、自分は自分を認識するときに、自分はそのままで良いと思っているし、そのままで正しいと思っているし、そのままで認められると思っているからです。逆に言うと、自分を自分で否定する場合は、自分はそのままでは悪くて、間違っていて、そして、認められないからという事になりますが、実際どうでしょうか。この事について自分に問いかけてみてください。自分は悪いでしょうか。そして、間違っているのでしょうか。そして、認められないのでしょうか。きっとそうはならないはずです。自分は自分の事をよくわかっていて、自分の陥っている事情をよく理解し把握しています。そんな自分が否定される状態にあるでしょうか。きっとないはずです。ですから、自分は自分を肯定してよいのです。

 

自己肯定とか、自己否定というのは、自分の内面の問題です。実際には、他人や社会との相対的な比較の中で、他人が秀でているとか、自分が劣っているとか、そういう相対的関係によって、肯定感や否定感が出てきます。そして、この場合、自分で自分を否定してしまっていると思います。それは自分自身が自分に対してジャッジしている状況です。自分の内面で起こっている事です。自分で無意識に自分を貶めて、自分だけの世界で自ら自分を否定しているのです。ですが、繰り返しですが、自分は否定される状態にあるのでしょうか。そう問いかけるとそんなことはない事に気付くと思います。自分は自分の事情があってそのような状態に陥っているだけですから、自分が否定されることはないのです。

 

では、具体的にはどのくらい自分を肯定してよいでしょうか。宗教のような言い方ですが、基本的に人間として否定される存在の人などいません。すべての人間はその存在を肯定されています。だから、原理的には、絶対的に肯定してよいという事になります。ですが、自己肯定や自己否定は、自分の内面の世界での話です。自分が自分の中でどう自分を認識するかの話です。他人との相対比較から決めるものではありません。だから、自分を肯定する条件は、他の特定の誰かより肯定されるべきとか、他の誰よりも最も肯定されるべきとか、他人の中で肯定されるものではありません。自分という範囲の中で、他人との比較は関係なく、肯定すればよいのです。

 

何かで人より劣っていて、自分の方が能力が低かったとか、自分より他人の方が良い成果を出したとか、そういう優劣の場合、そこには、自分の方が上とか、他人の方が上とか、そういう話が出てきます。ですが、自分自身が否定されることはありません。実際ここで問題になるのは自分の内面の事で、自分で自分を否定している事こそが問題なのです。実際何らかの成績や成果の評価で、自分が優れているとか、他人の方が優れているとか、そういうことはありますが、そのような評価における肯定、否定そのものは、きっと自分自身を傷つける事にはなりません。その事を通じて、自分自身こそが自分を否定しているのです。自己否定の辛さ、苦しさは、基本的に自分でそう仕向けて感じているわけです。

 

自己否定に陥って辛くて苦しいとき、これは自分自身の内面の話なんだと認識して、そして、自分で自分を自己肯定してやってください。自分を突き放したりせず、ないがしろにせず、自分を大事にして、肯定してあげていいと思います。

性被害や臓器売買から考える社会の在り方。遺伝‐環境からホッブズの社会契約論へ。

昨今注目を集めているMeToo運動。多くの女性による性被害に関する勇気ある声が世界を変えようとしています。それでも今までの告発は、実態のおそらく氷山の一角。今のところ、女性たちが生きていくのに、まだ十分安全で自由な社会とは言えないのが現状だと思います。また、世界各地の貧困のエリアで行われている臓器売買。時折ニュースやインターネットの情報でそのような現実が知らされたりしますが、これらも氷山の一角だと思います。一体どこでどのようにして、このような犯罪が行われているのだろうか、このような問題の発端は一体何なんだろうかと考え込んでしまいます。

 

考えてみると、実際にはこのような犯罪は自分たちと同じ人間が行っているわけです。自分と同じ人間が、どこかの子供を誘拐して殺して臓器を取り出して売る。信じられないですが、事実として起こっているのです。日本でも、様々な犯罪が行われていますが、さすがにこのような臓器売買がこの日本で起こっているとは考えられません。日本はまだ先進国で、社会の治安も国家や警察の権力で多少保たれています。でも、世界の多くの社会はそこまで成熟しておらず、安全な環境が維持できていないというのが実情だと思います。そのような国や社会では、政府の力も弱く、警察や社会を維持する機構も脆弱で、学校教育も不十分でしょうから、子供の安全も守られるどころか大人たちの社会性も育ちません。環境があまりにも違います。人間は生まれてきて環境の中で発達していきますが、そのような環境では先進国の人々と比較してまともに発達、成長していく事が難しいですし、環境そのものがそのような現実ですから、大人たちもそれがある意味普通の環境という感覚で生きています。環境が人間自身をそのようにしてしまうのです。

 

人間の性質は、遺伝の要因で決まるのか、環境の要因で決まるのか、という長い論争があります。いまだに決着はついていませんが、今のところは、遺伝の要因と環境の要因の両方が人間の性質を決めると考えられています。20世紀初頭までは、遺伝要因が重要視されてこれが結果的に悪用されナチスをはじめとする優性思想が勢いを増しました。その後の反省もあって、優性思想は見直されてきましたが、それでも人間の性質に対する遺伝要因はあるとの見方は今でもあります。DNAの遺伝子の特性は、人間の性質に対する遺伝要因を科学的に後押しするものではありますが、一方で、DNAのセントラルドグマにおいても、DNAからタンパク質へのプロセスの初期段階に外部からの環境要因が絡んでいるという科学的な見方が20世紀の後半に出てきて、いわゆる、エピジェネティクスとして注目を集めてきました。つまり、社会の中に、人間の性質は遺伝で決まるのではなく、環境により決まるのだとする流れが起きてきているのです。実際想像してみればわかると思いますが、人が胎児として産まれてきたあと、その発育の過程によって人の性質や人格は大きく変わるという事実は理解できると思います。人が環境要因で決まるというのは、自分はどんな生まれであっても変わることが出来るという意味で、とても希望のある考え方だと思います。

 

一方で、頻繁にニュースで入ってくる残忍極まりない殺人鬼などの話は、実際に先天的に殺人の欲望を持っている人間が多くいるという事を示しています。人間には、人を殺したいという欲望を持っているのです。もちろんそれはすべての人に対してではありません。ですが、先天的にプログラムされている人がいるのです。おそらく、日本でも報告される多くの性犯罪は、子供に対する性犯罪の話を聞いてもそうですが、欲望を抑えられなかったという証言も多いですし、実際のそのような欲望を先天的に持ってのだと思います。

 

人間には、様々な種類の欲望を持っています。それは自由の観点からも欲望については議論をされてきました。その多様な欲望の中に、人を殺したい欲望や、性犯罪をしたい欲望があった場合、社会として認めてよい事なのかというと認められないように思います。社会や国家は、そのような意味で、重要な役割を果たさなければならないのだと思います。

 

西欧政治史の中で、社会契約論という概念があります。ホッブズがはじめに、人間の性質を、利己的で狡猾で自分勝手な生き物と仮定して、その人間が集まって国民の一因となって国家を成立すると考えました。国家はその国を維持するために政府の権力が絶対であるとしました。その後、国民の自由の観点から、人間は他の動物と同じく生まれながらにして悪であるはずはないとして、産まれてくるすべての人が生きる自由があると宣言して、ルソーの社会契約論が注目されました。この考え方が、現在の基本的人権の基本になっていると思います。どのような人間でも、他の動物と同じように赤ちゃんとして生まれてきて、その子に自由や尊厳は認められるか、といった場合、認めないという論をないと思います。すべての人々には平等に生きる権利があり、尊重されるべきです。

 

そういった社会契約説を踏まえたとき、殺人したい欲望や性犯罪をしたい欲望は先天的に備わっているとして、人間の個人の自由が認められるべきなのでしょうか。現代の科学に基づいて人間の性質を考えたとき、人間は尊重されるべきですが、野蛮な獣のような性質がないかと問われると、無いとは言いきれません。社会は、人間一人一人を尊重すると同時に、人間社会を維持する事が役割です。ホッブズの言う社会契約論は国民の国家に対する自由が制限されていますからそのまま採用はできませんが、人間の性質の捉え方は一概に間違っているとは言い切れません。その意味で、ルソーの社会契約論からホッブズの社会解約論に、時代は戻りますが、シフトする必要があるのかもしれないと思います。ある程度、社会や国家が介入して、人間の自由を制限しないといけないのではないかと思います。

人間の情報子としての機能とは。人と話がしたいという欲求。

人はどうしてそんなに人と話がしたいのでしょうか。人には、自分の思っている事を他人に話したいし、聞いてもらいたい。そういう、他人に認められたいという承認欲求があるからだと思います。とにかく他人のリアクションが欲しい。ツイッターのようなSNSでも、何かを発信して、誰か分からないけどリアクションが欲しい。こういうのも、人と会話がしたい、自分の存在を知ってもらいたい、認めてもらいたいという欲求の表れなんだと思います。

 

人間という生命体は、「情報子」という機能を持っていると言われることがあります。一体、情報子とはなんでしょう。情報に関連して、人間は他の生物と同じく、DNAという遺伝情報を持っています。人間は、子から子へと遺伝情報を過去から未来に時間軸に伝達しています。構造主義言語学ソシュールの言語論に、通時性と共時性という概念があります。この概念を借りると、人間の情報に関する通時性とは、DNAの時間軸の情報の体系に相当します。共時性とは、この場合、時間軸ではなく、そのものの違いや体系の事で空間的なイメージでしょうか。言語における共時性とは、その時代の言語が、地域や民族で違っていてどのような多様な言語が使われているか、そのような言語の比較を議論するものです。人間の情報子としての共時性とは、人同士の直接対話や間接的なコミュニケーション、インターネットやメディアを介するコミュニケーション、文書や本なども含む、ありとあらゆる情報を、人を起点して、また、人を介して、交換し、拡散する事になるかと思います。もちろん、情報は時間軸においても過去から未来に伝達されていきますから、これも情報の通時性とも言えます。

 

人間は、知的好奇心があって、自分を取り囲む環境の情報をたくさんインプットします。色んな事を知りたいわけです。知ったことをすぐに人に話したいという欲求もありますが、人は感じて考える生き物です。インプットした情報を自分の頭で考えて整理して自分のアイデアを加えて新しい情報に形を変えます。その頭にたまった情報を誰かに聞いてもらいたくてしょうがないわけです。自分のアイデアを聞いてもらいたい。また、自分自身についても知ってもらいたいし、認識してもらいたい。そういう強い承認欲求を持っています。このようなあらゆる種類の「話したい」という欲求によって、多くの情報をアウトプットします。そうやって人は、情報をインプットして、その情報に自分のオリジナルを加えて、そして、その情報をアウトプットする、情報子として機能を持っています。このようにして、人間は社会を形成しています。人間社会とは、情報子という観点から分かりやすくなります。情報子は、単に情報を循環させているだけではありません。インプットした情報に新しい情報を付加してアウトプットします。その新しい情報が情報子としての自分の情報そのものです。この情報子の機能によって、社会全体に自分自身の情報が拡散していきます。

 

情報子に基づく人間社会の形成は、人と話をしたい、そして、認めてもらいたいという欲望を起源にしています。言うまでもなく、インターネットはその社会を拡張しています。インターネットの社会は今後もますます発展していく事が予測されますが、それは人間の承認欲求に基づくものなのです。

「人間型光合成」とは何だろう。引きこもりや冬季うつに効く。

元気ができない。やる気が出ない。疲れているけど、何かをはじめたい、変えたい、という事ってありますよね。何とか意志の力で何とかして、思考を働かせて、もっと努力して辛抱して…。でも、最近のコロナ禍にあって家にいることも多く、エネルギーというか活力が上がってこず、実行できない。そんな時は、人間の身体の使い方について考えてみるのもいいと思います。

 

人間は意志の力がどうにかするという以前に、身体を持っています。細胞から成る身体を土台にしています。身体が上手く活動していないと、意志や努力の力は発揮されないと思うわけです。そして、人間は動物だから、植物ではないとして、植物の営みを人間の営みから切り離して考えがちですが、細胞を持っているという意味では、同じ生命かどうかと考えると同じだと思います。細胞の性質は多少違いますが、生命が誕生して以来生物は進化を続けて、植物や動物に分かれて今に至るまで多様に発展してきましたが、中に含まれている化学物質は地球上のものを使っていて、だいたい水素、炭素、窒素、酸素を軽元素からなっています。人間も植物と似た性質を持っているという観点から、植物の営みの代表的なものとしての光合成について取り上げ、人間も植物の光合成とは仕組みは異なりますが、人間型の光合成をやっているんだという話をしたいと思います。

 

植物の光合成は、基本的に、水と、二酸化炭素と、太陽光の、三要素によって成り立っています。植物の葉の光合成反応中心にある分子が太陽光を吸収して、周りの水を伴いながら、二酸化炭素と化学反応をして、炭化水素を生成しています。結果的に、太陽光のエネルギーを得て、植物として必要な物質を生成しています。

 

人間の場合は、この仕組みとは違いますが、概念的には、水と、二酸化炭素ではなく酸素と、太陽光の三要素で活動しています。水は、身体にかなりの割合で含まれています。体内のほとんどの化学反応や生命活動は水が必須です。体温調節でも、排せつでも、何でもです。だから、水を補給し続けることは人間が生命として維持するために必須です。そして、酸素です。人間は酸素を呼吸によって取り込んで二酸化炭素に変換していますが、取り込まれた酸素は血液を通って身体中に行き渡っていて、脳内へも運ばれて脳の活動を支えています。そして、太陽光も浴びています。近年は一般に知られていますが、朝太陽光を浴びることでセロトニンが生成して、身体が活性化します。サーカディアンリズムは、太陽が東から昇って西に沈む周期に合わせて、セロトニンメラトニンが化学的にサイクルする仕組みで、一日の生活リズムを作っています。人間の行動は、太陽光によって促されているといってよいのです。このように、人間は身体全体で、水と、酸素と、太陽光、三要素で、人間型の光合成によって身体の活動を維持しているわけです。

 

私たち人間は、ここでお話しした「人間型光合成」を土台として、毎日の生活をしているんだという意識は、生命として活力を持って生きていく為にとても役に立つ考え方だと思います。水をしっかり飲み、深呼吸を意識的にやって酸素を取り込む、太陽光をしっかり浴びてセロトニンで活性化する。この光合成の三要素を日々の習慣に取り込むことによってはじめて、意志の力や思考や努力が意味を成してくるのだと思います。最近、在宅ワークで家に引きこもりがちになって、太陽の光をあんまり浴びていなかったりすると思います。知らず知らずのうちに、冬季うつみたいになってやる気や元気がなくなっていると思います。そのような状態では、意志や努力は効力がありません。ぜひ、自分たち人間は、植物と同じように人間型の光合成をしているんだと意識して、日々生活していけばやる気や元気が出てくると思います。

「失敗を恐れずに挑戦する事」の意味とプラグマティズム

よくスポーツ選手が、「失敗を恐れずに挑戦することが大事」と言いますが、どことなく本質をついているんだろうなと思いませんか。私は思います。確かに振り返ると、これまでに挑戦したことは、自分の人生にとって良い事だったように思います。もちろん挑戦して上手くいかなかったこともありますが、それによって得た何かはあったし、挑戦していなかったら何も得られていなかったと思います。今回は、この「失敗を恐れずに挑戦する」事について考えてみたいと思います。

 

この「失敗を恐れずに挑戦する」について、逆に「失敗を恐れて挑戦しない」という事を考えてみます。失敗を恐れて挑戦しないわけですから、する事は失敗しない事をするという事です。失敗しない事とは何でしょうか。確実にできることです。過去にやったことがあってすでに出来るようになっている事です。やって出来たことだけをやれば確かに失敗しません。できることですから。しかし、出来る事だけをやってもそれだけなので、新しいことができるようになりません。したがって、この戦略では、ずっと新しくできることが増えないわけですから、成長できないし、変化しません。変化のない日々を過ごすことになります。変化しない人間なんてあり得ませんから、やはりどこかで新しい事をやっているはずです。偶然新しいことをする事になってできるようになったとか、そういう場合でしょうか。偶然に任せて変化していく。もしくは、世の中は常に変化していますから、世の中に適応し続けていたらそれに合わせて変化していくのかもしれません。自ら挑戦していないだけで、環境に合わせて変化するというわけです。変化する、進化する事は、人間にとって生きていく中で自然に起こることですから、この過程で挑戦をしないというのはむしろ難しいくらいです。

 

では挑戦とは何でしょうか。これまでに出来なかった事や、これまでにやったことがなくてできそうにないことをやってみることです。できるかどうか分からないことですから、成功するかもしれませんけど、失敗するかもしれません。挑戦を続けていたら、確率で考えると、必ず失敗します。結局、挑戦するとは、失敗をするかもしれないけど、挑戦するという事です。失敗は怖いですから避けたいものですが、挑戦をしないと人間は変わることができませんから、結局、失敗するかもしれないけど挑戦することが大事だという事になります。

 

挑戦とは、新しいことをすることです。19世紀から20世紀にアメリカではじまったプラグマティズムの精神は、そのまま資本主義経済社会の根本の精神となり、今に至るまで有効に機能しています。プラグマティズムとは、これまでの地続きの現実から、存在していない未知の未来へ、連続させることです。未知への跳躍です。これまでなかった事を現実にしていく事です。物事の真理を向かって、人の信念により、これまで人類が積み上げてきた事実や知識の上に、新たな真実、真理を積み上げる連続性の思想です。世の中の現実は、連続しているのです。不連続な未知の空間へは飛び出せません。それでも、そこに真実があると信じて現実の空間から未知の空間に橋渡しをするように結合させるのです。これがプラグマティズムであり、挑戦です。プラグマティズムの精神が、現在の世の中を推し進めている原動力だと捉えると、まさに人類は挑戦によって人類の現在を切り開いてきたのです。その意味で、挑戦は人間が進んでいく本質と言えます。

 

スポーツ選手は、確かなものを持っています。確かにプロ野球選手のトップの投手は160kmの球を投げます。短距離走トップランナーは100mを10秒切って走ります。確かな事実です。でも、これらの記録は達成されるまでには未知の領域です。プラグマティックな挑戦無くしてこれらの偉業はありません。だから、「失敗を恐れずに挑戦する事は大事」である言葉は、人類を突き動かしてきたプラグマティズムの観点からも真実と言えます。

憂鬱で調子が出ない時は植物のように生活する

仕事も上手くいかない、気分も憂鬱で調子がでない。そういう時ってありますよね。そうなると、元気が出てくるのにしばらく時間がかかると思います。だから、すぐに立て直そうと何かを変えようとしたり、始めようとしたりしてしまうと思いますが、たいてい上手くいかず、疲れが長引いたりします。そんな時はどうするか、について考えてみたいと思います。

 

人間というのは生命ですが、生命には動物と植物があります。人間はもちろん哺乳類ですから、動物に含まれますが、植物の生活の仕方も参考になります。動物は動的に活動しているのに対して、植物は静的に活動しています。人間も元気な時の動物のように活発に活動しますが、元気の出ない時、調子が出ない時は、植物のように生活をする事をお勧めしたいと思います。

 

まず、無理に新しいことをはじめようとしたり、普段やっている事を変えようとしたりせず、普段やっているルーティンや習慣を大事にするのがいいと思います。習慣は自動化していますから、大したエネルギーを必要とせず楽に出来ると思います。習慣は毎日の生活を形作っている土台ですから、自分の調子を維持するには習慣を続けることが最も大事です。さらに憂鬱になったりさらに元気が無くなったりしていくのを防ぐことが出来ます。植物は、基本的に同じ毎日を静かに送っています。太陽が上がれば光合成をして日が暮れれば休みます。基本はその繰り返しです。そういう一日のリズムと季節を持って生きています。人も、植物のような暮らしをする事で安定してやっていけます。

 

そして、しっかり休むことです。これも植物と営みと同じです。植物は無理していません。人間も同じです。調子が出ない時は静的な暮らしをするのが良いともいます。静かに過ごして心身を癒してしっかり身体を休ませてやってください。それでも植物のようにちゃんとやっていけますし、エネルギーがたまってきます。

 

もうひとつは、身体のメンテナンスをすることです。植物は、陽の光を浴びて二酸化炭素を吸って光合成をし、根から水や栄養を吸収して身体の状態を維持しています。これと同じです。食事をちゃんととって、水をしっかり補給しましょう。そして、呼吸も意識してやりましょう。たまに、疲れてくると呼吸が浅くなったりしています。呼吸は酸素を取り込むだけでなく、頭蓋骨を動かして脳内の脳脊髄液の循環を良くしたりする効果もあるらしく、身体にも頭にもとても良いです。そして、光もしっかり浴びてください。光はセロトニンの生成を促進する作用があって、覚醒します。覚醒すると活力が上がってきます。光療法は、うつ病睡眠障害の改善や、概日リズムを整える効果があると言われています。植物の光合成とはメカニズムは違いますが、人間にも光による効果があります。

 

疲れて、憂鬱で調子が出ない時、無理に何かをしようとしなくても大丈夫です。人は動物ですが、植物のようなところもあります。植物の暮らしを意識してみてください。無理せずいつも通りルーティンや習慣を大事して、しっかり休んで、身体のメンテナンスをしてください。食事や水を摂取して、呼吸や光を意識してください。それで十分前に進んでいけます。

HSP傾向の人がつらい理由。会社では鈍感さと単純化・明確化が必要。

会社勤めをしているHSP(Highly Sensitive Person)の傾向を持つみなさん、大変ですよね。特に大きな会社に勤めている場合は、色々と気を使わないといけない事が出てきて対応できず、疲れ果てて、仕事の量や進め方をかなり自分に合うようにコントロールしなければなりません。そうしないと、ストレスでぼろぼろになって、鬱っぽくなったり、休んだりしないといけなくなります。そうではないでしょうか。そこで、何故HSP傾向の人が会社勤めをしているとつらくなるのか、その理由を考えてみたいと思います。

 

まず、会社にはたくさんの人がいます。そして、多くの人が集まって協業していくわけですから、みんなで上手くやっていく必要があります。そのような環境の中で重要なのが、団結する事と、参加することです。

 

団結することは、社会の集団を形成する場合はとても重要です。会社として機能するためには、社員の皆が会社の価値観や理念を共有して、ひとつの方向に向かっていかなければなりません。また、会社は人間から成る組織ですから実体は人々がリアルに運営する組織体です。だから、会社が機能するためには、理想的な民主制ではなく、社長をはじめとする中心的な少数の人たちが速い意思決定で色んな事を決めて進んでいかないといけません。だから、自分が一社員の場合、その責任のある少数の社員たちの決定したことに合わせてみんなで上手くやっていかなければなりません。そのため、団結することが重要なのです。

 

そして、参加することです。会社は多くの人から成り立っていますから、何かをみんなで協業してやっていく時、それらの仕事に積極的に参加しなければなりません。当然のことです。会社は、会社が準備するやるべき仕事に多くの人が参加して初めて進んでいくものです。

 

HSP傾向の人は、みんなで団結し、みんなで参加することが苦手です。基本的に、多くの人と同時に接するという事自体が苦手なのです。他人に上手く合わせる事に気を配っていますから、人の数が増えれば増えるほど手に負えなくなって、疲れてしまいます。でも、会社はそういうシステムですから、このシステムに各社員は上手に合わせていかなければなりません。

 

それでは、このような会社に対して、社員が上手くやっていく為に必要な事を考えてみましょう。まず、鈍感さです。それは何故かというと、多様なたくさんの人がいますから、それらすべての人に対応しようとしていたら、身体がいくつあっても足りません。でも、生産的な決定を下していかなければならない場面がたくさんありますから、あまり細かい人の違いや意見の違いに対しては鈍感である必要があるのです。HSP傾向の人の特徴は何と言っても、繊細さですから、鈍感になれるはずがありません。

 

そして、もうひとつ挙げたいのが、単純化、明確化する力です。上の鈍感さと似ていますが、多くの意見や考え方を、「要するに...」と単純にしてまとめる力が必要なのです。会社には多くの人がいて、意見や考え方は様々ですから、それらを一括りにして会社として機能させるのが会社です。ですから、大雑把にして、細かいところは気にせずに、単純化して分かりやすくする必要があるのです。ですが、HSP傾向の人は一人一人の考え方が無視できませんから、単純化できません。そもそも、たくさんの多様な人々の意見を一つのまとめようとする事自体が無理な話ではあるのですが、それでも、会社では、曖昧なものを排除して、分かりやすいものだけを拾い取って、まとめていかなければなりません。ですから、HSP傾向の人には無理な話なのです。

 

HSP傾向の人は、繊細で、多様な人々を尊重せざるを得ない特徴がありますから、鈍感さや単純化・明確化が求められる会社では、どうしても苦しくなるのです。決して、会社が嫌いだとか、会社の人たちが嫌いだとか、そういう意味ではありません。HSP傾向でない人と比べれば、むしろ会社の事や社員の人たちの事は好きだと思います。関心が高すぎて気を使い過ぎてしまうのです。鈍感なHSP傾向でない人はむしろ人に無関心な傾向があると言っても良いかもしれません。そして、人々はそもそも多様ですから、多様な人々の一人一人を高い強度で接しようとしていたら疲れ果ててしまいます。それは当然です。

 

HSP傾向のみなさん、会社は団結や参加をその性質上常に求めていて、上手くやるには鈍感さと単純化・明確化の力を必要としています。とても無理な話なのです。でも、HSP傾向の人は会社に他にもたくさんいます。ですから、自分が会社から求める団結や参加を拒否するような気持ちになってしまうことを責めたり否定したりする必要はありません。それよりも、自分を優先して働くようにした方がいいと思います。無理であることを理解して働くようにすると、自分なりの働き方が見えてくるのではないかと思います。