毎日の哲学の断片をつづるブログ

日々哲学することを習慣とし、思考と言葉をつづる

自分にとっての現実を自らの行動変容によって変えていく。

人は、自分にとっての現実を変えていきたいと思っています。自分にとっての現実が変わるのをただ待つのではなく、自分で変えていきたいわけです。

 

他力本願で、自分にとっての現実を誰かに変えてもらってもいいのですが、やはり、自分で変えていきたいわけです。自分で自分の現実を変えるという手応えが欲しいのです。

 

もちろん、自分にとっての現実を自ら変えることは出来ます。自分にとっての現実ですから、自分で何かをやれば、やったことが現実に反映されます。

 

だから、自分がやっていることを変えればいいのです。自分が普段やっていることを変えていけば、現実はそのまま変わっていくのです。

 

自分にとっての現実とは、自分の目で見えるものであり、自分の目の前に広がっていることであり、自分が捉えているものです。他の人が見えている現実ではなく、自分自身が見ているものが現実なのです。

 

その意味で、現実は主観的なものであり、自分がどのように見るかで現実は変わってくるのです。

 

そして、自分にとっての現実を変えていこうと思ったら、まずは、自分自身が変わっていけばいいわけです。

 

自分が変わっていくというのは、自分自身が行動変容するということです。行動変容とは学習するということであり、新たに何かを学習していくことで、行動変容していくということです。

 

行動変容とは、自分の持つアルゴリズムのようなものであり、自分のアルゴリズムが変われば、それはそのまま行動変容が促されることにつながるわけです。

 

そして、行動変容によって、結果的に現実が変わっていくのです。

 

現実は、自分の思うように変わらないかもしれません。そして、現実が変わってきた事を実感するのには時間がかかるかもしれません。

 

自分にとっての現実は、行動変容による結果として現れてくるものであり、タイムラグがあるのです。

 

確かに、現実を変えていくには、辛抱が必要かもしれません。

 

ですが、確実に変わってきます。行動変容により、結果は確実に現れてきて、現実もそれに伴って変わっていくのです。

 

人はそのようにして、自分自身の現実を自ら変えていくことが出来るのです。

 

自分の中のアルゴリズムをひとつ変えれば、結果もひとつ変わります。二つ変わるかもしれません。

 

幾つかのアルゴリズムを変えれば、それによる結果も大きく変わります。そして、時間とともにもっと大きく変わります。

 

人には行動変容する力があります。自分にとっての現実は自らの行動変容によって変えていくことができるのです。

自分の人生を自ら引き受けて、自分で意味を見出して生きていく。

人は、自分の人生を自分で引き受けることが大切です。自分の人生は自分以外の人の人生ではないわけですから、当然自分で引き受けて生きるのがいいわけです。

 

自分の人生を自分で引き受けようと思ったら、自分の身に起こっていることを自分以外のせいにしていたら、自分で引き受けようがありません。ですので、自分の人生を自分で引き受けるのが良いということです。

 

自分の人生ですから、自分で自分の人生に意味を与えないといけません。意味を与えなくても生きていくことはできないわけではありませんが、自分の人生に意味を感じられないと、つらいのは自分ですから、出来るだけ自分の人生に意味を与えてあげることが望ましいわけです。

 

自分で自分の人生に意味を与えてあげることが望ましいわけですが、それは、そもそも、自分の人生に意味なんて無いからです。自分の人生に意味なんて無いから、そのままでは生きるのがつらいから、だから、自分の人生に意味を自ら与えてあげないといけないです。

 

そのためには、自分自身で自分にとっての意味を見つけなければなりません。自分で意味について考え、自分にとっての意味を問い、自らその答えを出さなければなりません。

 

それは容易ではないかもしれません。

 

突然降ってくるかもしれませんが、何も降ってこないかもしれません。

 

ただ待っているだけでは降ってこないかもしれないので、偶然に任せず、自ら何とかその答えを導き出さなければなりません。

 

また、自分にとっての意味は、真の意味でなければなりません。導き出した意味が自分にとって有効に働かなければ、それは真の意味ではありません。

 

そして、自分にとっての意味を見出すためには、自分一人で見出さなければなりません。他の人に教えてもらっても、その意味は役に立たないかもしれません。

 

自分にとっての意味があるかどうかは、自分で判断して自分で決めなければなりません。自分で納得できなければなりません。

 

自分なりに意味を見出しても、それが永久に自分にとっての意味として機能してくれるとは限りません。今はその意味に有効性があっても、時間とともにその意味の効力が無くなるかもしれません。

 

意味は永遠ではないのです。意味は自分自身で支えなければなりません。

 

その意味で、意味について常に問い、常に考え、追求しなければなりません。そして、常にそれは自分にとって明確なもので、影響力があって、価値があるものでなければなりません。

 

そのようにして、人は自分の意味とともに生きていかなければなりません。

わたしたちは音の世界を生きている。音とともに自ら時間を作り出す。

わたしたちの世界が、時間と空間の世界と捉えるならば、主観的には、音の色の世界とも言えます。

 

人間にとっての音とは、主には耳から入ってくるものであり、聴覚を通して認識した音を時間として主観的に創り出しているわけです。

 

同様に、人間にとっての色とは、目から入ってくるものであり、視覚を通して認識した空間として主観的に創り出しているわけです。

 

そのようにして、人間は主観的な世界を生きているわけです。

 

時間は元と辿れば音であり、音の流れによって時間が作られているということです。

 

ですから、音の流れが速かったり遅かったりすれば、それによって主観的な時間も速く感じられたりゆっくりと感じられたりするわけです。

 

自分が時間に振り回されているというのは、時間の流れを上手くつかめていないということであり、音の流れに乗れていないということです。

 

川の流れに身を任せるように、音の流れに身を任せないといけないわけです。

 

ですが、時間は自分の中で主観的に生成するものでもあり、時間の流れを上手く作り出すということが大切とも言えるわけです。

 

自分にとっての時間は自分で作りだすのですから、深呼吸をして心を整えることが有効であるように、自分で上手く時間を調整しないといけないということです。

 

時計の針は刻々と進んでいますが、自分にとって重要な時間は、自分の中で時を刻むのであり、その時間はちゃんと自分で調整しないといけません。

 

心が逸っていると、自分の時間が狂ってしまうし、時には止まってしまうのです。

 

音楽が心を整えるのに有効なのは、音楽が本質的に音の流れによって作り出されているからであり、わたしたちは思っている以上に、音の流れの影響を生きているということです。

 

音の流れの中に生きているということなのです。

 

一方で、空間とは色であり、視覚情報であるわけで、時間とは異なるものです。わたしたち人間は、色の世界を生きています。

 

色にも変化があり、色彩には移り変わりがあり、これも時間を作り出します。ですが、音が作り出す時間の流れとは異なるものです。

 

わたしたちは色の世界に生きていると同時に、音の世界にも生きているのです。音の世界の中で、音の変化とともに、時間の変化を感じ、時の流れを感じるのです。

 

そして、自ら時間を作り出すのです。音の情報に基づいて時間の流れを作り、自ら調整するのです。

 

時間が無く、時間に追われ、時間に振り回されるのは、音の世界の中で自らの時間を上手く作り出せていないからです。

反芻思考を音声情報によって止める。聴覚が主観的な時間を生成する。

人間は、自分の中で、ネガティブなことを思い出してはずっと考えてしまうという反芻思考を持っています。

 

自分の中で、ずっとネガティブな音声の情報が再生されてしまうのです。

 

音声情報とは、一般に、耳から入ってくる情報です。聴覚に基づいた情報が音声情報となるわけです。

 

音声が頭の中で流れるわけですから、音声は時間の流れを持っているわけです。

 

人間の視覚能力が、主観的な空間を生成し、それを空間として認識しているように、人間の聴覚能力が主観的な時間を生成し、それを時間として認識しているわけです。

 

つまり、主観的時間とは、聴覚によって作り出されているということです。

 

もちろんこの世界には、時間があり、空間があるわけです。この時間と空間の世界の中でわたしたちは生きているわけです。

 

そのような世界を現実世界、あるいは、客観的世界というならば、私たち人間が捉え認識する世界は主観的世界であって、主観的に作り出した時間と空間の中をわたしたちは生きている世界として認識しているわけです。

 

そして、その時間とは、聴覚が作り出しているのであって、音声の情報やそれによる思考は音声という時間の流れの中にあるわけです。

 

そのように考えると、ネガティブな反芻思考という問題は、外部からの音声情報によって止めることができると考えられるわけです。

 

人と話をしているとき、ネガティブな話をしているのでなければ、自分のネガティブな反芻思考は止められるわけです。

 

同様に、オーディオブックやラジオ、ポッドキャスト、YouTubeを聞く、など、音声情報を聞くことも、反芻思考を止めることにつながるわけです。

 

一方で、映像を見るなど視覚情報を見ても、反芻思考を止められません。聴覚情報と視覚情報は同時並行で処理できますから。

 

反芻思考とは、時間の流れの中にあるのです。自分が作り出している主観的な時間の流れの中にあるということです。

 

自分の時間の流れの中で音声情報による思考が再生され、展開されているのです。

 

自分の時間の中の音声情報による思考の再生とは、つまり、心の声であり、自分の聴覚が作り出した時間の流れの中にあるものなのです。

 

そして、反芻思考は心の声によるのであり、心の声を、外部からの音声情報で妨げるということなのです。

 

わたしたちは、反芻思考で苦しみます。それは、自らの耳で作り出した主観的な時間の中で再生されているのです。

 

そして、反芻思考を止めるには、外部からの音声情報が有効です。音声情報を聞くことによって、ネガティブな心の声を妨げるのです。

不安センサーとともに、適応的で負けない戦略。

人間の不安センサーは困ったものです。ネガティブバイアスを持った生き物であるから仕方がありません。

 

ですが、それが哺乳類全般、恐竜のように強者ではなくて生き延びることができる適応的生き物であるからであり、その性質を否定するものではありません。

 

危険や危機、不安や心配事は絶え間ないわけですが、その高度なセンサーが予測機能につながって、この世界を戦略的に生きるわけです。

 

積極的に勝ちに行く戦略では無いかもしれませんが、積極的ではないが負けない戦略であるわけで、小さく負けても大きく負けないことで、チャンスをつないでいるのです。

 

その意味で、人間は長期戦に強いのです。不安ドリブンではあるものの、リスクマネジメントの性質を活かしながら、大きく負けることを上手く回避してむしろそれを戦略として活かしているのです。

 

強過ぎる不安は確かに人間にとっては大きなダメージで、一歩も前に進めません。ですが、強過ぎない不安であれば、それに耐えつつ、軽減させつつ、その間に安全な場所に回避して、そこから戦略を立てるのです。

 

人間である以上、不安は無くなりません。何かがあるから不安なのではなく、そもそも不安という感情を持っているのです。

 

ですから、不安を過剰に抑制しようとせず、不安をあるがまま受け入れ、不安を認めるのです。

 

自分の不安と向き合い、自分のものとできれば、後はそれを上手に自らのセンサーとして活用するのです。

 

不安センサーは高感度ですから、上手く使えばかなり実用的にもなるのです。

 

そして、不安センサーという強力なツールを備え、戦略を立てるのです。適応的な自分をそのまま活かし、独自の戦略を持つのです。

 

負けても負けない、という日本語的にも矛盾した表現ですが、大きく負けずに活路を見出す戦略をとりながら、単なる受動的な生存戦略に留まらない、積極的な戦略を持つのです。

 

適応的戦略は消極的、また、受動的戦略にも見えますが、上手く活かせば、積極的、能動的な戦略にもなるのです。

 

負けない戦略ですから、その基盤の上で、様々な戦略を立てられるのです。

 

それはゲームです。面白いゲームです。自分なりの勝ちに行く戦略をゲームのようにして立てるのです。

 

短期戦でなくても長期戦に持ち込めるし、この手がダメならあの手があるんです。戦略はたくさん立てられます。

 

ですから、不安センサーは疲れますが、その性質をそのまま受け入れて認めるのです。

 

そして、負けない、でも、勝てる戦略を立てるのです。

自分の言葉で自分を動かしていく。

言葉には力があります。自分自身を突き動かす力があります。

 

自分自身を変えていきたいと思っても、なかなか思うように自分は変わってくれません。変わってくれないというか、思ったように動いてくれません。

 

思っているより、自分の腰は重いのです。椅子から立ち上がるには、腰が重すぎるのです。

 

その重い腰を上げさせるには、まずは、自分をその気にさせないといけません。

 

確かにその理由や目的だったら、重い腰を上げてでも動き出そう。そのように思わせてくれる何かが必要なのです。

 

そのような何かを自分に説明してあげなければなりません。言葉で説明するのです。

 

自分がそれで納得できるなら、その言葉はきっと有効です。そんな言葉があるのです。

 

人は言葉で動きます。ですから、そのような言葉を作り出すのです。

 

ですが、ただ言葉を並べればいいわけではありません。自分にとって有効な言葉が必要です。

 

そして、どの言葉が有効かわかりません。自分にその言葉を投げかけてみても、全然心は動かないかもしれません。

 

でも、もし自分の心を動かし、自分を奮い立たせる言葉を投げかけられたなら、自分はきっとすぐにでも立ち上がり、動き出します。走り出すかもしれません。

 

ですから、まずは言葉を投げかけるのです。自分に向かって、有効な言葉を見つけ、作り出し、投げかけるのです。

 

言葉は概念に過ぎませんが、言葉を発しているうちに、それが自分の中に確かなものになって自分を突き動かしていく原動力になっていくのです。

 

心は、その言葉が有効かどうか、確かかどうか、わかります。心は自分とつながっているし、動きますから。

 

ですから、自分を突き動かす言葉を探り当て、それを自分に投げかけ続けるのです。

 

言葉を口で発してもいいし、ノートに書いていってもいいんです。自分の手でノートに書いて刻み込んでいくうちに、自分の中に結晶となって沈殿していくんです。

 

きっと、そのような言葉は見つかります。自分の心を動かし、その気にさせる言葉は必ず見つかります。自分に的確に刺さる言葉の表現が見つかります。

 

同じ内容でも言葉の表現が違っていると、自分の心に刺さらないんです。自分の心に刺さる言葉というものがあるんです。

 

ですが、その言葉に出会ったなら、きっと自分の心を底の方から突き動かして、自分自身をも動かしていくんです。

 

言葉にはそのような力があります。今はまだそのような言葉は見つかっていないかもしれませんが、必ずあるんです。

明確化によって世界は創造されている。具体化と抽象化。

世界の先端では、明確化が進行しています。世界は常に創造され続けていますが、その先端では明確化という営みが絶え間なく開拓し続けているのです。

 

人間は、曖昧なのが嫌いで、不明な状態ではいられないので、何でもシンプルにしないと気が済みません。本能としてシンプルにしたい欲求を持っているのです。

 

脳は、明確なのを好んでいて、不明であることをストレスに感じ、不快に感じるのです。

 

ですから、明確化せずにはいられないのです。

 

そういう意味で、人間は抽象化する事が大好きで、他の動物と比較しても圧倒的に抽象化する能力を持っています。抽象化する事で世界を加速度的に押し広げてきたのです。

 

とは言え、世界が具体的なことから成り立っているのは言うまでもありません。常に具体的なことが行われていて、展開していて、創造されています。人の営みも、常に具体的な実践そのものです。

 

具体的にしていくことで、世界は創造され、進行していくのです。

 

そして、具体的になるということは、何か混沌としたものが明確になるということです。具体的なものが創られ、形として現れて、明確になるということです。

 

具体化の先に、明確化があるのです。

 

世界を見ると分かるように、世界は常にダイナミックスに動いています。留まることなく移り変わっています。

 

一か所が変わり続けているのではなく、あらゆる箇所が変わり続けています。中心があるわけではありません。あらゆる点が、常に変わり続けているのです。

 

あらゆる点において、常に留まることなく具体的なものが創造されています。

 

人の営みも同じく、曖昧な状態を明確にしようとして、一点に集中して具体的に何かを営んでいます。その営みの先に具体的なものが創造され、明確化が進行しているのです。

 

その意味で、世界の先端では、明確化が進行しています。

 

人間は、曖昧な状態、あるいは、不明な状態から、明確なものを抽出し、抽象化しようとしています。抽象化することで不明な状態から解き放たれるのです。

 

そして、常に具体化しています。具体的なことを取り扱い、具体的なものを作り、形にし続けています。具体化することはそのまま形に現わしていくことによって明確化しているのです。

 

そして、留まることなく明確化の営みを続けることで、世界は創造され進行し続けています。

 

世界の先端では、常に明確化が起こっていて、あらゆる点において、明確化の営みによって開拓が進んでいるのです。