毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

抽象の力が、身体に基づいて自分自身を突き動かす原動力になる。

自分の中で想像することは、自分を行動させていくことの原動力になります。

 

実際に目の前のものを見なくても、自分の中でそれをイメージすることだけでも、それを実現しようとする原動力になるということです。

 

人間には、無いものをイメージによる埋め合わせによって、モザイク状のものに明確な輪郭を与えることができます。イメージを作って無い部分を埋めて、あたかも現実にあるかのようにするんです。

 

この、イメージする力によって自らを突き動かしていけるんです。これが、未来に向かって生きていく力です。

 

イメージすることは抽象化することでもあり、人間は具体的なものだけではなく、抽象的なものも操ることができるということです。

 

その最たるものは言葉であり、言葉という抽象物を自在に操ることができます。言葉はイメージとは別物の抽象物ですが、これによっても自分自身を突き動かすことができるんです。

 

人間は身体から成り立っていて、自分の行為や行動は習慣によって成り立っています。学習によって習慣化した事は自動的にできるようになって、自然と手足は動かせるんです。

 

歩くことも食べることも、習慣によって自然で行えるんです。

 

このような具体的な行為だけでなく、抽象的なことに関しても、同じように、身体に基づく習慣によって行うことができるんです。

 

子供の頃に、何処かで聞いてきて仕入れた、おぼつかない言葉も、いつの間にか自由自在に使うようになって、どんどん洗練させていきます。

 

言葉は毎日の習慣によって、抽象物であるにもかかわらず、身体の一部のように操るようになるんです。

 

もちろん、想像することは全般的に、見たもの、聞いたもの、あらゆるものを、想像して、抽象物に変換して、操るようになるんです。拡張された身体の一部として操るようになるんです。

 

具体も抽象も、人間の身体の延長線上、あるいは、身体そのものと言ってもいいかもしれませんが、身体によって操ることができるわけです。

 

毎日の言葉は、自分自身をある方向に導き、力強く推し進めます。身体における習慣として、自分を動かしていくんです。

 

そのようにして、人間は自分自身で色んなことをし、色んな活動を行うわけです。

 

具体的な何かを実現して初めて何かが為された、と思いがちです。

 

確かにそれは間違いではないですが、抽象を扱うわたしたち人間にとっては、抽象的な何かを生み出し、操ることが、自分自身を動かしていく原動力となり、それによって実現につながっていくんです。

不快な状態から脱して、快適な時間を作り、何かを新たに始める。

快適な時間を作ることは、何かを新たに始めるリスタートになると思います。

 

不快な時間の中にいると、いかにこの不快さから逃れるかということばかりを考えるようになります。不快さから逃れることは確かに大事なことですが、不快さから逃れることばかりを考えて、自分を良い方向に導いてあげることはできません。

 

落ち着いて、ゆっくりと時間を取って、自分が何をしたいのか、何をはじめたいのか、そういったことを考えるためには、快適さが重要なのです。

 

蒸し暑くて、身体もきつくて、精神的に追い込まれている状態では、まともに良い考えはできません。ただただ、その状態がつらい、ということばかり考えて、むしろその事に考えが集中するばかりで、何をしたいかなんて考える余裕はありません。

 

この状態からいかに脱するか、を考える方がまだ良くて、実際にはそんなことすら考えられません。ただ、つらいことに耐えることに集中するだけです。

 

でも、快適な状態を取り戻せれば、少なくとも、その状態に耐える必要がなく、何かを落ち着いて考える余地が生まれるわけです。まずは、そのことが大切なのです。

 

そして、不快な状態は、案外自分自身で作り出してもいます。

 

自分のマインドがいつもくせで、不快になっているんです。不快なことを思い出してはそのことに囚われ、そのことについてずっと考えているんです。

 

このような自動思考をずっとやっているんです。次から次へと湧いてくる不快なことの断片に囚われては考え、このことをずっと繰り返すことで不快さを自分の中に自ら作り出してしまっているんです。

 

今いる温度や湿度などの周りの環境が不快ということではなく、自分自身の内部から作り出した環境が不快なんです。

 

ですから、自ら作り出した不快さの問題を解決しないといけないんです。意識が自分の不快さに向くのを止めないといけないんです。

 

これは意識の問題であり、意識を何に向けるべきか、このことに気付けば、それだけで意外と不快さから解放されるのです。

 

不快な状態のまま、自分を良い方向に導いてあげることは困難です。不快な習慣は修正するべきです。そのような状態では、何かをしたり、始めたりすることはできないんです。

 

そうではなく、まずは、快適さを取り戻すんです。不快なマインドの中で、不快な断片に囚われている自分に気付くんです。

 

そして、不快さから抜け出して、快適な時間を自分に作ってあげるんです。そうすることで、スペースが生まれて、何をし、何を始めるか、ゆっくり考えられるようになるんです。

自分のことが分からない。自分と向き合って自己理解を深める。

人は悩んでいることに、「自分と向き合う」ということがあります。自分のことが分からないからです。自分のことなのに、自分自身よく分からないということです。

 

自分は、毎日何かしらの活動をして暮らしているわけですが、常に何かの目的ややるべきことを明確に意識してやっているわけではありません。

 

日々のことは習慣になっていることが多いから、特に自分の行為や行動のことは自分自身分かっていなくても、やっていけるわけです。

 

それは、猫や犬もそんなことは分からずともやっていけているわけですから、当然と言えば当然です。

 

ですが、分からなくてもいいかと言えばそういうわけでもなくて、やっぱり分かりたいんです。

 

自分自身の事がよく分からないと、何かで行き詰って前に進まなくなったとき、どうしていいか分からなくなります。

 

また、自分の中はいつも不安定で、不安で、精神的につらい状態ということもあります。

 

何故そんなにつらい状態になるのか、分からないわけです。何故つらいのか、分からないことには、手の打ちようがありません。解決のしようがありません。

 

ですから、自分のことをより知ることが必要になるんです。自分自身のことが分からないままである事は苦しいことなんです。

 

よく分からない自分を抱えながら、自分と向き合って、そして自問自答をするわけです。自分で自分に問いかけ、そして、考え、自分なりに答えていくんです。

 

人は、自己理解を深めなければなりません。自分に対する理解を深めること無しに、前に進んでいく事はできません。

 

自分の足で前に進んでいくためには、自分と向き合って、自分に対する理解を深めなければならないんです。

 

そのためには、自分に対して良い問いをしてあげることが重要です。適切な問いを立てられなければ、適切な回答は導けないわけで、いつまで経っても自己理解は進みません。

 

適切ではない問いをいくら繰り返しても、ずっと空振りが続いて解決しないどころか、間違った方向に自分を導いてしまうかもしれません。そして、自分に対する間違えた理解に陥るかもしれません。

 

そうではなくて、自分に対する正しい理解が必要なのです。そうしてあげないと、自分自身を救い出してあげることはできません。

 

ですから、自分としっかり向き合って、適切な問いを立てて正しく自己理解を進めるんです。

 

そうすることで、自分が分からないという状態から、よく知っているという状態に自分を救い出すのです。

人は自分なりに自分にとっての意味を見出して生きていく。

人は意味を見出すことなしに生きていくのは困難です。自分なりに意味を見つけて、意味を作っていくんです。

 

人に意味を示さないと、この世界では生きていけないような気がして、何とかこの世界にある意味を見つけて、その意味を自分のものにして、それで生きていこうとするんです。

 

意味さえあれば、この世界はその意味を認証し、受け入れてくれて、そして、生きていけるような気がします。

 

ですが、その意味を自分のものとしなければ、意味はあくまで認証としての意味であって、自分自身を支えてはくれませんから、いずれ意味はただの意味でしかなくなってしまいます。

 

とは言え、確かに、この世界にエントリーするためには必要であったわけで、その意味は自分のものでなかったとしても、とりあえずは、そのようにしてその意味を生きる糧にしていくわけです。

 

その意味も、しばらくは実効性があったかもしれませんが、いずれその効力は失われます。自分を支えてくれないものであるときがやってきます。

 

そうすると、それからは、自分で自分なりに意味を見出していくしかありません。そもそも、意味なんて自分には備わっていないわけですから、いずれは自分を支えてくれる自分だけの意味を見出さざるを得ないわけです。

 

人は意味がないと生きていけませんから。

 

自分にとっての意味はどこかにあるのでしょうか。この世界の何処かにあるのかもしれません。そうであるなら、この世界の中で旅をして、どこかできっとその意味で出会えるんだと思います。

 

きっとそれは自分の意味になるし、自分の支えになってくれます。

 

また、自分にとっての意味は、すでに自分の中にあるのかもしれません。ただ、自分がその事を認識していなかっただけで、自分の中にすでに育っていたのかもしれません。

 

でも、そのことに気付いたなら、きっとそれは自分にとっての確かな意味になるし、自分を内側から支えてくれます。

 

どのような形であれ、自分なりに意味を見出し、また、見つけ出すんです。

 

いつしか、その意味は効力を失うかもしれません。永遠の意味ではないかもしれません。

 

それでもいいんです。意味はまたきっと出会えます。そして、自分の中に育ちます。

 

ですから、意味は最初から自分の中に確かな存在としてないのであり、ただそんなことは問題ではなく、自分なりに見出していけばそれでいいんです。きっとそれはこの世界の中で見つかるし、自分の中に見出せるんです。

 

そのようにして出会った意味とともに、人は生きていくんです。

資本主義経済社会は、成果主義、評価主義、相互承認主義社会。

世の中は、資本主義経済社会で回っているわけですが、それを回しているのは人間たちです。人々は、自分たちの仕組みによって、資本主義経済社会を回しているんです。

 

人々が組織立って、集まってするのが好きなのは、成果システムです。結果を出して、それを成果とし、それを評価してもらう。そのようなシステムを作るのが好きなんです。

 

やったことを、ただやったことで済ますのは面白くないので、それを評価してもらいたいわけです。評価してもらって、認めてもらいたいわけです。

 

成果も評価も、要は認めてもらうということにつながっているわけで、承認システムだということです。

 

もちろん、人は認められることだけが好きというわけではなく、認めることも好きなんです。意味があるのかないのか。価値があるのかないのか。そういったことを評価するのが大好きなんです。

 

承認され、賞賛されるシステムを、人々はすぐに作ってしまいます。一人で遊んでいるのはつまらないから、みんなで集まって、承認し合い、賞賛し合うんです。

 

この承認システムによって、社会は上手く回るわけです。

 

経済のシステムにおいては、評価され、承認されれば、お金が得られるシステムでもあるわけです。評価に値する成果は価値がありますから、お金を与えてもらえるわけです。

 

一方で、資本主義社会では、資本家あるいは投資家は、企業を評価しています。企業が成果を上げれば投資家は株を買います。これによって株価が上がり、企業の評価が上がるわけです。

 

企業も、成果主義で回っているわけです。経営者は、常に証券取引所や株主、投資家に徹底的に評価されています。企業の成果を見ているのです。

 

会社で働いている従業員は社内では成果が求められ、評価にさらされてしますが、これと同様に、経営者も、成果が求められ、評価にさられているわけです。

 

私たち人間は、常に成果を求められ、成果を出し、評価を受ける、そのようなシステムで、この資本主義経済社会を回しているんです。

 

これを、成果主義社会とも呼べるし、評価主義社会と呼べるし、要するに、人間の相互承認主義社会と言えるわけです。

 

これに、お金は有効に機能しています。というより、この人間たちのシステムを円滑に回すために、お金というものが出現したわけです。

 

とにかく人は、成果を出すのが好きで、評価を受けるのが好きで、承認されるのが大好きだということです。

 

そのようにして、この資本主義経済社会を回しているわけです。

人間は概念を創造し、操り、それとともに生きる。

人間は、概念を作る生き物です。そして、概念を操る生き物です。

 

概念とともに、人は生きていくんです。

 

概念は不確かなものです。曖昧であり、無形であり、事実とは異なります。ですが、それでも、人は概念を頼りにします。概念に頼ることなしに生きていくことは困難です。

 

この世界には、たくさんの事実があります。確かなものがそこにあって、それを頼りに生きているわけですが、それだけでは生きていけない面もあるんです。

 

事実と事実の間を、概念で埋めるんです。

 

あたかもそこに実体があるかのようにして、それを頼りに生きていくんです。

 

それを足場にすらして、生きていくんです。過去には無くて、未来にもないかもしれないけど、今そこに概念があるなら、その概念を足の踏み場にして、そこを渡っていくんです。

 

概念は創造される。無いところに作り出すわけですから、それは創造物です。不確かでありながら、その概念を創造して、それを頼りにして、生きていくんです。

 

概念に効力があるかどうかは自分次第です。概念に対する自分の理解や明確さが、その概念の力を高めます。

 

かつて存在しなかった概念を、人は新たに作りだし、そして、それとともに、生きていくんです。

 

この世界の多くの部分は、概念から成り立っています。すべてのパーツが概念ではないとしても、多くのパーツは概念です。

 

概念は、捉えどころが無いように見えて、人によっては確かであり、また、人によっては解釈が異なり、それでも、人は概念を当てにして、概念の力を借りて、概念の力を強くして、強く感じて、それを自分の力にして、支えにして、そうやって人は生きていくんです。

 

概念の鎖をつなぎ合わせて、何度も結び直して、つなぎ直して、自分なりに概念を強くして、それを支えに、人は生きていけるんです。

 

その概念が他の人にとっては効力が無くても、自分にはその効力があるなら、概念はそれで十分であり、それを自分の力にして、生きていくんです。

 

概念は創造物であり、その意味で自由です。いかようにも作り出すことができ、それを自由自在に使いこなすこともできるんです。

 

概念を自由に操り、それを力にして、自らの生を強くしていくんです。

 

例え、ひとつの概念が効力を失っても、効力のある概念をかき集めて、また、自ら概念を作り出して、それを自分の力にして、それを支えに生きていくんです。

 

概念は確かに不確かでありながら、それでも、概念はいつでも自分の力になるんです。

意味は自分の中で再生する。

そもそも、意味なんて無いんです。この世界には、初めから意味があるわけではないんです。

 

世界は確かにそこにありますが、意味も一緒にあるわけではありません。

 

意味はあくまで後からつけるんです。そして、自分なりに意味をつけるんです。意味は無いが、意味は自分が作るんです。

 

意味なんてものは、確かに不確かなものです。それでも、その意味を確かのものとして信じて、人は生きていくんです。

 

とは言え、意味は力があり、自分が見出した意味を支えに、人は生きていくことができるんです。

 

その意味では、意味は存在するんです。自分の中で意味は存在し、その意味により自らを支えるんです。そのようにして、意味は機能するんです。

 

自分の中に生成された意味は、豊かさがあり、多彩さがあります。自分だけの彩りや深みを持っています。

 

意味は自分で作れるんです。不確かに感じられるかもしれませんが、確かな意味を自らの内部に作ることができるんです。

 

この世界から、自分なりに意味の断片をかき集めて、かき集めた断片を総動員して、自分の中に、意味を構築するんです。

 

意味を支えるだけの断片はこの世界にたくさんあります。資源はたくさんあります。

 

それらをこの世界から見つけてくるんです。自分の目でそれを捉え、自分の手でそれを掴むんです。それらは自分の中の意味の一部として構成されるんです。

 

それでも、意味はあるときその効力を失うかもしれません。効力を失った意味は、無意味化するかもしれません。

 

ですが、それでも、新たに意味を生成することができるんです。

 

自分がこの世界に存在している限り、そして、自分がこの世界を捉えている限り、いつでもこの世界から意味の断片をかき集めることができるんです。

 

自分の目と手と、身体全体を使って捉え、自ら意味を形作っていくんです。意味を再構築するんです。

 

何度でも意味は書き換え、再生できるんです。

 

まるでそれは生き物のように、何度も再生して自分の中に生まれ変わるんです。

 

自分なりの意味なしに、この世界をどのようにして人は生きていけるでしょうか。意味は不確かかもしれないし、事実ではないかもしれません。そもそも、最初から意味が存在しているわけではありませんから。

 

ですが、それでも、意味は生成するんです。この世界と向き合ってこの世界をその断片を集めてくるんです。

 

自分次第で、意味は力を持ち、自分の中に確かに育ち、内側から自分を支えるんです。

 

いつでも、意味は自分の中で再生するんです。