私は、日々習慣を大事にして生活していますが、最近、身体の現象学を勉強していて思うのは、やっぱり日々の習慣が自分を作っていくんだなという事です。
例えばコーヒーを飲むという場合にも、自分の身体の一部である手がコーヒーカップを持ち口の運ぶわけですが、そこにはコーヒーという物体があり、コーヒーを飲むという行為は、身体とコーヒーとともにあって初めて成立します。すでに、特に何も考えなくても、そこにコーヒーの入ったコーヒーカップがあれば勝手に手がコーヒーに口に運んでくれます。自分にとってもはや、コーヒーカップが物体であるとともに身体の一部である手も道具=物体のように使っています。ですが、単なる道具ではなく、すでにその行為は無意識の習慣になっていて、手がコーヒーとともに一体となって主体的に行動してくれています。
そのようにして、客体でもあり主体でもある身体がコーヒーカップとともに「コーヒーを飲む」という無意識の習慣を作り創り出していて、この行動が「自分」の行動を創り出しています。コーヒーを飲むという行為、習慣ははじめから自分にあったわけではありませんから、主体としての身体とコーヒーが出会った事によって習慣として身につき、その習慣が自分の行動の一部となって自分を形成しているというわけです。
このような形で、コーヒーを飲むという習慣だけでなく、あらゆる習慣が身体によって身についていて、その数えきれない行為、行動によって、自分自身が作られています。歩き方、話し方を含めて、それらの動き、所作はきっと自分特有なものになっていて、それらが自分であるという事を示しているはずです。そのようにして、習慣が「行動する自分」を創り出しています。
その意味では、話し方というのも、自分という特有のものになっているはずです。口を使った発生の仕方から、周りの人を見て身につけた喋り方、本を読んで身につけた言葉の使い方まで、あらゆる「話す」事を成立させている行為が習慣となって、「話す自分」を創り出しています。
そういう意味では、「考える自分」もそうです。デカルトのコギト(=意識)は、身体の現象学で考えると、自分の身体による習慣、行為、行動によって無意識に成立していると言えます。
そのようなわけで、日々の習慣が自分を作っているという事について現象学を参考にして考えてみました。「行動する自分」が自分だとすれば、まさに日々の、繰り返し反復し、また、改善しながら行っている習慣が自分を作り続けていますし、「話す自分」が自分だとすれば、日々の言葉やその所作に関する習慣が自分を作り続けています。これからも、日々の習慣を続けながらそれらを見直し、そして改善し、より良い自分を作っていきたいと思います。