毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

人間は「自分」を創ろうとしている。現象学的な自己形成という事について考える。

昔からある疑問の1つに、「一体人間は、何をしようとしているんだろうか??」というのがあります。最近現象学というものに触れて、色々と考えを巡らせていると、実は、人間は自分自身を創ろうとしているのではないだろうかという気がしています。

 

自分や意識という意味での心と、物体としての身体は別であるとする心身二元論という、デカルトからはじまる心身問題というものがありますが、これは、主体と客体の問題も含んでいて、客体が主体によって客観的に認識される対象であるという非対称な関係性を示しています。

 

一方、メルロ=ポンティの身体の現象学では、身体というものが、世界と自分との関わりにおける主体=自分の一部としての、また客体=物体としての両義的な役割を担っている点に着目して、単に主体でもなく客体でもない身体が、無意識の習慣によって自分を形成するとともに、自分の意識により身体を通して世界に直接関わっているというように捉えて、自分と世界、主体と客体という二元論を乗り越えようとする考え方が示されました。

 

対象としての世界は、主体としての自分が客観的に認識してはじめて存在すると見なすのではなく、自分と対象との関わるその場所において、対象とともにあるかのようにして、対象そのものをありのまま受容するような形で、自分と世界との関係性を捉えていくという事です。

 

また、その世界に自分が内属しともにあるような場所において、新たな意味を形成しているという事を通して、メルロ=ポンティは人間の世界との関わりや、例えば、芸術の生成などについても説明しています。

 

また、身体に基づく習慣の形成についても、人間は習慣の上にさらに習慣を上書きするように高度な認知や動作をある意味自然に身につけていきますが、そのようにして、人間としての自分を形成しています。

 

また、言語に関しても、習慣化のプロセスのように、繰り返し反復し、また、言いたい意味の本質を言葉で上手く捉えられなかったり、表現できなかったりしつつも、その意味を言葉で表し、そのようなプロセスを通して新たな言葉が生み出されたりします。

 

そのような、世界との関わりや習慣、言語と言った、人間としての認知を構成する意味や概念の形成プロセスについて現象学的に考えていくと、つまるところ、人間というのは、そのようにして、人間性としての「自分」を生み出そうとしているように思えます。

 

自分自身の中で、また、世界と関わっていく中で、意味を形成していくように、自分自身と向き合いながら、自問自答をして、ある場面では主体と客体の関係になりつつも、自分自身に自ら内属してともにあるようにして「自分」という意味を創り出していく、現象学的記述を通して自分を生み出そうとしているように思います。

 

自分自身、幼い頃の自分とは異なる自分が、年月とともに、経験とともに、変化というより積み重なりながらより高度に形成していっているように感じます。

 

実存の問題において、特に人間性の実存に関しては、例えば、人間の本質よりも先に人間は存在しているという事を主張するわけですが、それはつまり、自分自身の本質や意味より、存在しているというその事実こそが重要だという事です。自分としての本質、自分としての意味は分からないとしても、不明だとしても、自分自身がそこにいるという事が、すでに自分が存在する理由になるという事です。ただ、人間はその本質が分からなくてもそれを追い求める、そういう生き物です。

 

そのようなわけで、現代人の思う、人間らしい自分としての自己は、自らの現象学的なアプローチによって、自己を形成するプロセスにより自らを生み出そうとしている、創ろうとしている、そのように思います。