毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

快適空間-余白というリッチさ-

人は、自由で解放的で伸びやかな快適空間を求めていると思っているわけですが、それは「余白」ではないか。そう思うわけです。

人間には、ゲシュタルトと言って、ランダムで無秩序な世界、例えば、モザイク状の視界に輪郭を与え、それに意味を与える能力があります。

りんごという物体も、視覚的にそのようにして、この世界から切り出して認識しているわけです。

さらに、そのような認識能力によって言葉を生み出し、あらゆるものを不明確なものから明確のものとして輪郭を与えるわけです。

それをシンボル化と呼んでもいいし、記号化と呼んでもいいし、象徴と呼んでもいいわけですが、それによって、目の前に広がる無秩序な世界を、一部切り出して、そして、限定して、制限して、例えば、言葉として形にして、明確化して、シンプル化して、そこに押し込んでいくわけです。

この意味としての押し込みによって、人間は取り扱う事を可能にしているわけです。

何か一点に、太陽の光をレンズで収束させていくわけですが、一方で、そこに苦しみが生まれるわけです。

一点への収束は、一点に制限し、不自由にするわけです。明確化したい欲求がありながら一点に収束しようとして、その事によって、自由度を失って苦しくなって、死にそうなるわけです。

そこで、人間のもう一つの性質があって、一点に収束しようとして制限しようとしながら、同時に、広げていこうとするわけです。

収束が死を意味するなら、収束からの広がりは生を意味するわけです。

それは、自由であり、解放であり、想像であり、無制限の空間であるわけです。

常に人は、制限をかけようとしながら、余地を作ろうとする、ある意味で、両義性を持っているわけです。

あらゆる芸術とは実はそのような性質になっていて、音楽も絵も詩も全て、そのような構造になっています。

音楽は、メロディやリズムとして音に制限をかけつつも、次から次に流れていく音は自由があり、展開していく余地や可能性があるわけです。心地良い音が奏でられる余地を人間は常に期待しながら、音の流れや変化の余地あるいは潜在性という無限の自由度に、自由や解放を感じているわけです。

詩も、象徴的に、少ない言葉に制限しながら、一方で想像の余地を、潜在性の余白を無制限に残しているわけです。

人は想像する事が好きで、潜在的なものが好きなわけです。そこには、余白があり、日本のお寺の侘び寂びの庭は、象徴的に配置された石とそれ以外の余白が永遠の自由を与えるわけです。

そのような余白は、リッチな空間であり、喜びであるわけです。人は常に余白を求めていて、自由さ、潜在性というリッチさを求めているわけです。