毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

無意識と意識を行き来して生を生きる。

人は、意識を何かに集中させる事で生きる事が出来ます。何かに集中している時こそ、自分をはっきりと感じられ、そして、生きた心地がし、つまり、人間として自分を生きられるわけです。

 

自分自身が意識であり、意識として生きる時、意識の状態としては幾つかのパターンがある事が分かります。

 

そもそも意識とは、特に明確である必然性はなく、散漫な無意識から、集中した点としての意識があるわけです。

 

意識が散漫で、分布的な、また、確率統計的な自分というのは、潜在意識として無意識で状態であって、自分を自分として認識できない分布としての雲のような状態と言えます。その状態にあっては自分を自分として認識できず、だからこそ、自己認識の無いまま自分を自分として生きていない状態と言えるわけです。

 

とは言え、その散漫な無意識も確かに自分と言えるわけです。意識こそが自分で、無意識は自分ではない、というわけではないわけです。

 

ただ、自分を生ある自分として感じられるのは、確かに明確な点としての意識であり、散漫な、分布的な状態というのは、自分として生きているように感じられないというだけという事です。

 

その意味で、生ある人間の生態としては、点としての顕在化した意識と、雲としての潜在的な無意識の収縮運動のようなものと言えます。どちらも自分であり、どちらの状態も自分自身の生を支えているわけです。

 

例えば、眠っている時の自分というのは、意識が無意識化して、潜在意識として雲のような分布した状態と言えるわけです。そこには、明確な自分は無いわけです。

 

一方で、起きている自分というのは、意識がはっきりしていて、点として明確で、つまり、意識は集中されて覚醒していると言えるわけです。

 

その両方の状態が自分を支えているのであり、散漫になったり集中したりしながら、どちらか一方に留まることなく、生を保持しているわけです。

 

そのような意味で、無意識と意識の間を漂いながらも、人は意識を何かに集中させるわけで、この事実により生を感じられるわけです。自分で自分をしっかりと感じられるわけです。

 

意識を何かにコミットさせ、そこに集中する。そして、自分を感じて、生を生きる。このようにして生きながら、確かな自分を生きながら、そして、休むわけです。散漫な、分布的な、無意識としての自分として眠るわけです。

 

人はそのような収縮運動の中を生きているし、その間を行き来しながら、時には意識を点として集中させて、生を生きるわけです。