毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

「自己効力感」や「気分」よりも「自分を大事にする」に意識を向ける。

「自己効力感」を高めることが大事、みたいな言説をよく聞きますけど、文字通り、自分自身に向き合って自己効力感を感じるというのは悪い気はしないですが、とにかく単純に自己効力感を高める事にドリブンして生きていこうとするのは、大変なように思います。

 

自己効力感というのは、自分の気分を上げる事につながっていて、とにかく、自分の気分が良い状態になろうとして生きていくのは、不安定なことがいっぱいのように思います。人は気分の影響を確かに強く受けますから、気分が悪いと、とにかく、生きづらくなります。なので、どうしても、自分の気分をいつもケアしながら生きていかなくなるわけですが、気分を上げる事で生きていくのには、限界を感じます。

 

自己効力感を感じるとか、気分を上げるとか言った事は、他人との比較で獲得されることが多く、それではきりがありません。人間の欲にきりがないように、周りの人や世の中の人との比較によって相対的に自己効力感を高めよう、気分を上げようとするのは、きりがないどころが、必ず他の誰かとの比較によって、自己効力感が下げ、気分が下がる事になります。

 

そのように、相対的に、他人や世の中と、自分の外に向かって比較して何かを得ようとするのではなく、自分自身に意識を向けてあげる事が、とても大事だと思います。そして、もっと自分を大事にする、大切にする意識が大事だと思います。

 

特に、自己効力感が下がっていると感じている時、気分が下がっていると感じている時、そして、気分が良くない時は、意識を自分に向けてあげる事が良いと思います。

 

自分の精神的な事、メンタル的な事は、自分の身体に基づいている事がほとんどです。身体の不調が原因である事がほとんどです。

 

だから、気分をどうやったら上げるかを考えるのではなく、自分の事や、自分の身体に意識を向けて、自分の身体と常日頃から対話する事が良いと思います。

 

セルフマッサージする事も、セルフストレッチする事も、凄く効果的です。ヨガも呼吸瞑想もそうです。毎日、直接身体と対話する習慣を持っておくことは何より良いです。

 

ストレッチなどをして、身体のどこが痛んでいるか、疲れているか、チェックをして知っておくことは大事です。呼吸は浅くなっていないか、どこの筋肉が緊張して硬くなっているか、知っておくことは大事です。そして、そういう事に対して、マッサージしたりストレッチしたりして対処していくと、身体が楽になって解放されていきます。この解放感を伴う心地良さを知っておくことも何より大事です。

 

そのようにして、自分自身、自分の身体を大事にしていく事が凄く大切だと思います。それは、自己効力感や気分に依存して生きていこうとするより、はるかに良いです。

セルフ・コンパッション。どうしていいか分からない時は自分を大事にする時間。

頭がごちゃごちゃしていて、今日はどうしていいか分からないとか、何かを決めようとしてもなかなか決められないとか、あると思います。時間もあって自分を動かしていきたいんだけど、何かこう、自分を動かせない感じというか…。

 

きっと身体が疲れていたり、体のあちこちが痛んでいたりすると思うんです。また、仕事の事が気になってストレスを感じていたり、焦っていたりすると思うんです。やらないといけない事もたくさんあるし、頭の中は、色んな事がたくさん回っていて、頭も疲れています。

 

そういう時は、自分で自分に向き合って、自分に意識を向けて、自分を大事にする事が大事だと思います。セルフ・コンパッションの意識です。

 

頭の理性や知性、言語、分析思考では、自分の事について解ってあげられない時ってあると思います。そういう時は、自分の身体と対話する意識が大切だと思います。

 

身体に意識を向ければ、身体のあちこちが硬くなっていたり、疲れていたりする事に気付きます。私はいつも肩こり、首こりに悩まされていますから、たいていその事に気付けます。だから、身体を使う習慣として、簡単なヨガをやったりしています。セルフマッサージも良いと思います。自分の手で、肩回りやお腹回り、足を触ってチェックしたり、マッサージしたりするのも良いです。セルフストレッチも良いと思います。

 

また、自分と向き合う時間という事で、瞑想もとても良いです。呼吸に意識を向けて、心を落ち着かせて、身体の状態に気付くようにします。息を吸ったり吐いたりするのをゆっくりやると、本当にリラックスしてきますし、心地良い気持ちになります。

 

また、私の場合は、肩こりがひどいですから、よくやるのが、ゆっくりとした呼吸で心身をリラックスさせてから、息をゆっくり吸う時に肩を出来るだけすくめるように上に上げて、しばらくその状態で緊張を保ちながらキープして、それから息を吐きながら肩を下ろしていく、というものです。その動作を数回繰り返しします。肩回りの血行が改善していくのが実感できます。

 

こんな感じで、身体と対話したり、呼吸瞑想で自分と向き合ったりする時間を作る事はとても有効です。頭ではなく、身体と向き合う事です。

 

人には、頭ではどうしても分からない、理性や知性では分からない、そういう領域があるように思います。そういう、自分を何とかさせようとしてしまう時は、そうではなく、自分を大事にする事に意識を向ける事が大切です。セルフ・コンパッションの意識が原点です。

 

そうしていくうちに、自分が、自分の身体が、自分のコアの部分が、自然と前に進んでいくと思います。

マルチな自分を何度も取り込んで乗り越えて生きていく。人生のレーンは変更可能。

人は、1個の主体的な自分から成り立っているようで意外とそうではなく、色んな自分が自分の中にあって、そのマルチな自分が、色んな事を考えて、色んな方向に行こうとして、そして、ある時自分の中で、また別の、自分を観る自分がそれらに整合性をつけて、一つの方向に揃えるかのようにして、生きていっているように思います。

 

客観的に見ると、その人はずっと同じ方向に人生を進めているように見えたりしますが、自分の中では四苦八苦しながら、色んな自分がある意味のたうち回りながら生きていっていると思います。

 

ある意味それは、人間は主観的な人間であるという事を言っていて、そのようにでしか世界を見られない、接せられないという事だと思います。自分だけのウィンドウを持っていて、そこからの景色でしか、世界を見えない。その世界に向かって、色んな選択肢を持つように生きながら、でも、周りから見ると、ただその人らしく生きているように見える。人は基本的には社会的な自分として社会に張り付けられていて、また、多くの周りの他人の中の自分として他人の中に存在しているので、そのように見えるんだと思います。とは言え、自分自身は色んな自分が色んな方向に生きていっているように感じます。

 

先の見えない人生。それでは生きていくのは怖い。困難だ。という事もあると思います。一方で、先が見えなくていい。というのもあると思います。

 

先の見える人生という言い方をすると、それはそれで怖いですが、子供の頃から大人になるまで一本のレールの上を歩いていくように思える人生、それはぞっとします。ある種、絶望の道にも思えます。

 

どこかで人は奇想天外な展開を期待していて、予想外の面白い展開、楽しい展開を期待しています。そして、実際、人生は一本道である事はほとんどありません。それも主観的な自分だからこそそう思えるのかもしれませんが、実質的に、思わぬ人生に良くも悪くも転がっていく事がたくさんあります。

 

人はマルチな自分から成り立っています。自分の中のマルチな自分が、色んな方向に生きていこうとして、ある時破綻して、ある時それでも思わぬ方向に転じて、そして、新たな自分が自分の中で生まれたりして、何度もマルチな自分を取り込んでは乗り越えて生きていく。それが人生だと感じます。

 

いつだって、人生は変更可能で、人生のレーンを変更する時を待っています。自分から強引にレーンを変える事も出来ます。そんな瞬間をいつだって人は待っています。そうやって、マルチな自分が自分自身を乗り越えて生きていくものだと思います。

ウェルビーイングとポリヴェーガル理論。人に優しくあることが心地良い。

ウェルビーイング(Well-being)は、自分の生きていく目的である事は相変わらず変わらないわけですが、自分にとって良い事、良くある事とは、一体どういう事なんだろう、また、一体どういう事をしたらいいんだろうという事について、ポリヴェーガル理論から考えてみようと思います。

 

ウェルビーイングというのは、自分自身の身体や健康だけでなく、自分の生き方や価値観、自分自身にとってのあらゆることについて、良い状態である事だと思います。

 

例えば、良い事をしたい、みたいな事ってあると思いますけど、そういうのってとても良い事だと、普通に思います。良い事っていうのは、自分にとってもそうだし、自分の周りの人たちに対してもそうだし、世の中に対してもそうだと思います。自分以外の事について良い事をするというのは、普通に気分の良い事で、心地良い事です。

 

仕事も、基本的には、そのような仕組みになっているはずで、人や世の中にとって良い事、役に立つ事、利益になる事が仕事になります。そうでない場面は実態としては各所にあるようにも思いますが、基本的にはそうです。

 

また、自分に対してだけではなく、自分の周りの人にも、優しくある事、優しくしたいと思う事も、結局自分にとって良い事だと感じます。人に優しくなれると気持ちが良いという事です。これは、ウェルビーイングと言ってよいと思います。

 

出来るならいつだって人は、人に優しくありたいわけですが、自分の事に精いっぱいで、自分以外の人、自分以外の事に優しくなれる余裕がなく、自分の事ばかりになる。人に優しくなれない自分がいるわけですが、それでも、人に優しくあった方が絶対に心地良いし、そういう自分でいたいと感じます。それは、そうする事が、そうある事が、自分にとって心地良いからです。

 

ポリヴェーガル理論では、自律神経系を3つに分けて、進化的に最も古い背側迷走神経系、次に古い交感神経系、哺乳類に見られる進化的に新しい腹側迷走神経系があると説明されています。背側迷走神経系は、ネズミの死んだふりやうつ状態、かたまり、を引き起こす自律神経系、交感神経系は、闘争・逃走反応、腹側迷走神経系は、「社会交流」とポリヴェーガル理論の中では呼ばれている、人にとってレジリエンスのある、安心した状態につながる自律神経系です。

 

3つ目の、腹側迷走神経系の活動を促していく事が、自分自身が安心感に包まれ、心地良く生きていく上で大事なわけです。そして、それが社会交流につながるという事です。

 

そのような事を考えていくと、社会交流していく自分、人に優しくなれる自分というのは、ポリヴェーガル理論で言うところの、腹側迷走神経系の活動を促進させていくという事に関係がある事になります。哺乳類の進化も、親が子を守り育むように、そのような方向に進んできたというわけです。

 

人に優しくあるという事で、利他的な事をする事が大事というのもありますが、どちらかというと、自分自身が自分や自分以外の人や世の中に優しくなれるような、そういう自分になる、という事の方が大事だと思います。結果的に、その振る舞いが利他的かもしれないですが、ポイントは、自ら自分や自分以外の人たちにも、良い事、優しくあることができるようになる、という事だと思います。

 

それが、結局自分にとってのウェルビーイングにつながると思います。そういうわけで、自分や自分以外の周りの人、世の中に対して優しくあるような自分を目指す、そういうウェルビーイングを目指して、生きていきたいと思います。

色んな事を毎日やっているマルチな自分。1日1つ小さな楽しみ。

人というのは、いろんな要素の自分から成りなっていて、起きてから寝るまで、ずっと何かを考え、何かをやって、ある時何かについて悩み、そして、楽しむ。1日はある意味そんなに短くはないから、仕事も行くにも、仕事中だけではなく、その支度や移動、帰宅、色んな事をやっています。

 

仕事をしていると、やらないといけない事がたくさんあるように感じたり、実際やっていたりして、毎日ストレスで疲れている、という事はあると思います。そんな毎日は送るのは嫌だし、明日を迎えるのも嫌。そう思いながら、毎日を過ごすのは辛く苦しい事です。

 

ただ、人は、いろんな要素の自分から成り立っています。やる事もたくさんあれば、考えている事もたくさんあって、感情や気分の種類もたくさんあります。1人の自分というよりかは、マルチな自分がいるという感じです。

 

確かに、日々暮らしていく為に、生きていく為に、やらないといけない事はたくさんあります。仕事などはそういう要素は多いと思います。家事も結局同じです。生きていく上で必要な事です。

 

でも、自分がやっている事を注意深く見ていくと、やらないといけないと感じている事、嫌な事ばかりではありません。料理をするにしても、料理もしないといけないと思いながらする部分もありながら、料理を作る事自体は楽しいとか、作り始めると楽しいとか、そういった楽しい要素はあります。

 

それは仕事だって同じです。大雑把に振り返ると、疲れて大変だったとなりますが、細かく見ていくと、小さな事で楽しかった事は案外あります。ちょっとした会話とか、今進めている仕事の何かとか。

 

そう考えると、1日に1つくらいは、ちょっとした楽しい事はあるはずです。やりたくない事もあるけど、楽しい事、楽しみな事もあります。そのような事を考えると、その楽しい事を見逃すのは勿体ない事です。

 

むしろ、仕事でやらないといけない事があろうが何であろうか、1日に1つは楽しい事、楽しみを入れていく事は大事だと思います。ちょっとした事で十分だと思います。

 

それは、今進めている仕事の一部かもしれないし、昼ごはんを食べる事かもしれないし、同僚とおしゃべりすることかもしれません。また、帰宅中での買い物かもしれないし、家に帰って、夕食を食べることかもしれないし、ドラマを観ることかもしれません。小さな楽しみ、小さな喜びは意外とたくさんあったりします。

 

人は基本的にマルチな要素から成っていて、やらないといけない事からちょっとした楽しい事もやっているわけだから、色んな事を毎日やりながら、1日1つはちょっとした小さな事、小さな楽しみ、喜びを意識してやっていくのが良いと思います。

自分の一部である”自分“を、自分の一部である”自分”で大事にする。

自分を自分で大事にする、大事にしてあげるという意識は、言うまでもなくとても大事だと思います。自分を自分で愛してあげなかったら、一体誰が自分を大事にしてくれるのか、という事です。

 

もちろん、若い時、幼い時は、親や他の大人たちから大事にされ、愛されるという事で自分自身が支えられる、保たれるという事もあるんでしょうけど、歳を重ねるとともに、発達が進むとともに、自我が芽生え、「思考する自分」が形成されてくると、自分自身で自分自身を大事にするという事が可能になってきます。

 

「自分を」「自分で」という最初の自分は、自分の身体であったり、感情であったりすると思います。また、心とも言えますし、メンタルや精神とも言えるかもしれません。気持ちも含まれるかもしれません。比較的、自分自身としては無意識の領域という感じでしょうか。自分の奥底の、自分自身を支えている土台のようなもの、自分のコアという感じです。

 

「自分を」「自分で」という2番目の自分は、考える自分、思考する自分という感じだと思います。自分自身を客観視する自分、メタ認知する自分です。自分に対してより良く考え、深く分析する、クリティカルシンキングする自分です。

 

最初の「自分」も2番目の「自分」も、それぞれ自分の要素の一部です。実際には、「自分」という自分の全体性からすれば、どれもすべて自分であり、マルチな自分の全体性が自分なわけです。ある時自分の一部は、客観視する主体としての自分となり、一方ある時自分の一部は客体となるわけです。ですが、単なる主体と客体の関係ではなく、主体としての自分と客体としての自分は常につながっていて、相互に属し合っているような形で自分の中にいて、それ全体として自分という感じです。

 

そのようにして、自分の要素の一部である身体や感情を持つ“自分”を、また、自分の要素の一部である考える“自分”で、大事にする、愛してあげるという事が重要だと思います。

 

それは自立とも言えるし、自由(=自らによる)とも言えると思います。

 

そして、そのように自分の全体性としてあることによって、他人や世の中に優しくなれたり、関わっていく事ができたりするように思います。そうでないと、自分として十分でない自分、愛が足りない自分は、いつでも他人や世の中に依存しすぎる事になるし、逆に他人を傷つけてしまうようになってしまいます。それでは、世の中にとっても良くないし、何よりも自分自身にとってちっともよくありません。

 

そんなわけで、自分の一部である“自分”を、自分の一部である“自分”で大事にして、愛してあげたいと思っています。そのようにしていく事で自分自身が自由になっていくんだと思います。

「自分」とは何だろう。ゲシュタルト的自分。マルチな自分と生きていく。

自分とは何だろう。という事で、ある面、頭でっかちな私としては、「思考」する自分、脳を中心とする「考える自分」が自分という認識をしがちなわけですが、そう単純ではないだろうと思います。

 

そういうわけで、自分とは何か、について考えてみたいと思います。

 

自分のありかという事になると、最初に上げた思考する自分こそが自分という感じがするのですが、一方で、日々感情や気分の影響を無視できない自分がいる事を考えると、「感じる」自分が自分であることを否めない、というのはあります。心地良さとか気持ち良さは生きていく上でとても大事だし、つらさや苦しみのネガティブな感情は無視できず絶えずケアしないと生きていく事が困難になることを考えると、考える自分も自分かもしれませんが、感じる自分が自分であるという認識は絶対に否定できません。

 

日本語には「思う」という「感じる」と「考える」の中間みたいな意味の言葉がありますが、「思う」は、「感じる」と「考える」の折衷案的な中間に位置するものではなく、「感じる」と「考える」の両方の要素が混合したものという感じがします。思っている時というのは、同時並行的に、「感じる」事と「考える」事が進行しているという感じです。その2つの要素を混ぜ合わせて一体となったものとして「思う」という感じです。その意味で、考える、感じるより、「思う」自分が自分という感じがします。

 

また、感情に関しては、身体とのつながりが強く、身体の一切の影響を受けない自分はあり得ません。先ほどの、感情や気分を無視できないのと同様に、身体を無視した生き方は絶対に出来ないし、身体の心地良さは生きているという心地を強く感じさせるし、身体のつらさ、痛みは自分自身のものとして強く感じます。その意味で、自分の身体が自分であるという面は無視できません。

 

「思考」が、明確な意識している意識という領域だとするなら、「感情」や「身体」は無意識の領域という感じで、例えば、習慣やそれに基づいた行動は、自分自身を自分たらしめる要素として無視できません。

 

そこで、自分を会社というものに置き換えて考えると、会社は社長ではありません。かと言って、誰か1人の社員でもありません。少なくとも、社長を含む全社員から構成されるものが会社です。もちろん会社は法人としてその形を成立させていますが、とは言え、社員ひとりひとりがいなければ、実体としての会社はありません。会社は、会社としての機能を持っていますが、その機能が一人の社員にのみ備わっているわけではありません。会社が会社として機能するためには、あらゆる機能が会社にはあって、それらの機能を各社員がそれぞれ分担して備えていて、その全体としての多機能な集合としての機能を会社は備えています。会社は、社員一人一人の自律性とネットワークの構造です。アメーバ経営としての運営が為された構造です。つまり、会社とは、社長でもなく、あるひとりの社員でもなく、あらゆる機能を担う自律した社員とネットワークの構造から成る全体としての会社です。端的に言えば、会社とは会社としての全体性です。

 

それを、自分に置き換えて捉えてみると、自分とは、「全体性」としての自分という事になります。

 

その事を、「ゲシュタルト的自分」と言い換える事が出来ると思います。

 

ゲシュタルトとは、ウィキペディアで調べるとこうあります。「人間の精神を、部分や要素の集合ではなく、全体性や構造に重点を置いて捉える。この全体性を持ったまとまりのある構造をドイツ語でゲシュタルト(Gestalt :形態)と呼ぶ。」

 

つまり、思考する自分も自分という要素のひとつですが、感じる自分も自分の要素だし、身体も当然自分という部分であり要素です。また、習慣から成る自分も自分だし、それに基づいて行動する自分も自分です。それらの自分の部分や要素の全体性を持ったまとまりのある自分が、自分という事です。

 

そういうわけで、自分というのは、色んな自分の部分や要素から、つまり色んな自分から成り立っているんだなと思うと、確かにそうだなと感じるし、そういう色んな自分、マルチな自分とともに生きていこうと思える気がします。