毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

マルチな自分を何度も取り込んで乗り越えて生きていく。人生のレーンは変更可能。

人は、1個の主体的な自分から成り立っているようで意外とそうではなく、色んな自分が自分の中にあって、そのマルチな自分が、色んな事を考えて、色んな方向に行こうとして、そして、ある時自分の中で、また別の、自分を観る自分がそれらに整合性をつけて、一つの方向に揃えるかのようにして、生きていっているように思います。

 

客観的に見ると、その人はずっと同じ方向に人生を進めているように見えたりしますが、自分の中では四苦八苦しながら、色んな自分がある意味のたうち回りながら生きていっていると思います。

 

ある意味それは、人間は主観的な人間であるという事を言っていて、そのようにでしか世界を見られない、接せられないという事だと思います。自分だけのウィンドウを持っていて、そこからの景色でしか、世界を見えない。その世界に向かって、色んな選択肢を持つように生きながら、でも、周りから見ると、ただその人らしく生きているように見える。人は基本的には社会的な自分として社会に張り付けられていて、また、多くの周りの他人の中の自分として他人の中に存在しているので、そのように見えるんだと思います。とは言え、自分自身は色んな自分が色んな方向に生きていっているように感じます。

 

先の見えない人生。それでは生きていくのは怖い。困難だ。という事もあると思います。一方で、先が見えなくていい。というのもあると思います。

 

先の見える人生という言い方をすると、それはそれで怖いですが、子供の頃から大人になるまで一本のレールの上を歩いていくように思える人生、それはぞっとします。ある種、絶望の道にも思えます。

 

どこかで人は奇想天外な展開を期待していて、予想外の面白い展開、楽しい展開を期待しています。そして、実際、人生は一本道である事はほとんどありません。それも主観的な自分だからこそそう思えるのかもしれませんが、実質的に、思わぬ人生に良くも悪くも転がっていく事がたくさんあります。

 

人はマルチな自分から成り立っています。自分の中のマルチな自分が、色んな方向に生きていこうとして、ある時破綻して、ある時それでも思わぬ方向に転じて、そして、新たな自分が自分の中で生まれたりして、何度もマルチな自分を取り込んでは乗り越えて生きていく。それが人生だと感じます。

 

いつだって、人生は変更可能で、人生のレーンを変更する時を待っています。自分から強引にレーンを変える事も出来ます。そんな瞬間をいつだって人は待っています。そうやって、マルチな自分が自分自身を乗り越えて生きていくものだと思います。