自分とは何だろう。という事で、ある面、頭でっかちな私としては、「思考」する自分、脳を中心とする「考える自分」が自分という認識をしがちなわけですが、そう単純ではないだろうと思います。
そういうわけで、自分とは何か、について考えてみたいと思います。
自分のありかという事になると、最初に上げた思考する自分こそが自分という感じがするのですが、一方で、日々感情や気分の影響を無視できない自分がいる事を考えると、「感じる」自分が自分であることを否めない、というのはあります。心地良さとか気持ち良さは生きていく上でとても大事だし、つらさや苦しみのネガティブな感情は無視できず絶えずケアしないと生きていく事が困難になることを考えると、考える自分も自分かもしれませんが、感じる自分が自分であるという認識は絶対に否定できません。
日本語には「思う」という「感じる」と「考える」の中間みたいな意味の言葉がありますが、「思う」は、「感じる」と「考える」の折衷案的な中間に位置するものではなく、「感じる」と「考える」の両方の要素が混合したものという感じがします。思っている時というのは、同時並行的に、「感じる」事と「考える」事が進行しているという感じです。その2つの要素を混ぜ合わせて一体となったものとして「思う」という感じです。その意味で、考える、感じるより、「思う」自分が自分という感じがします。
また、感情に関しては、身体とのつながりが強く、身体の一切の影響を受けない自分はあり得ません。先ほどの、感情や気分を無視できないのと同様に、身体を無視した生き方は絶対に出来ないし、身体の心地良さは生きているという心地を強く感じさせるし、身体のつらさ、痛みは自分自身のものとして強く感じます。その意味で、自分の身体が自分であるという面は無視できません。
「思考」が、明確な意識している意識という領域だとするなら、「感情」や「身体」は無意識の領域という感じで、例えば、習慣やそれに基づいた行動は、自分自身を自分たらしめる要素として無視できません。
そこで、自分を会社というものに置き換えて考えると、会社は社長ではありません。かと言って、誰か1人の社員でもありません。少なくとも、社長を含む全社員から構成されるものが会社です。もちろん会社は法人としてその形を成立させていますが、とは言え、社員ひとりひとりがいなければ、実体としての会社はありません。会社は、会社としての機能を持っていますが、その機能が一人の社員にのみ備わっているわけではありません。会社が会社として機能するためには、あらゆる機能が会社にはあって、それらの機能を各社員がそれぞれ分担して備えていて、その全体としての多機能な集合としての機能を会社は備えています。会社は、社員一人一人の自律性とネットワークの構造です。アメーバ経営としての運営が為された構造です。つまり、会社とは、社長でもなく、あるひとりの社員でもなく、あらゆる機能を担う自律した社員とネットワークの構造から成る全体としての会社です。端的に言えば、会社とは会社としての全体性です。
それを、自分に置き換えて捉えてみると、自分とは、「全体性」としての自分という事になります。
その事を、「ゲシュタルト的自分」と言い換える事が出来ると思います。
ゲシュタルトとは、ウィキペディアで調べるとこうあります。「人間の精神を、部分や要素の集合ではなく、全体性や構造に重点を置いて捉える。この全体性を持ったまとまりのある構造をドイツ語でゲシュタルト(Gestalt :形態)と呼ぶ。」
つまり、思考する自分も自分という要素のひとつですが、感じる自分も自分の要素だし、身体も当然自分という部分であり要素です。また、習慣から成る自分も自分だし、それに基づいて行動する自分も自分です。それらの自分の部分や要素の全体性を持ったまとまりのある自分が、自分という事です。
そういうわけで、自分というのは、色んな自分の部分や要素から、つまり色んな自分から成り立っているんだなと思うと、確かにそうだなと感じるし、そういう色んな自分、マルチな自分とともに生きていこうと思える気がします。