確かに、今自分はここにいる、あるいは、何かをしている、という厳然たる事実があるとしたら、その事実からどのように今後展開していくのか、という可能性は常にあるわけです。
可能性とは未知数であり、不確実な事であり、常にどうなるか分からない事であるわけです。状況が悪くなる可能性も秘めていますが、同時に、良くなる可能性も秘めています。
どの様にしても確定しないわけですが、それはすなわち、可能性と言えるわけです。
この、開かれた可能性の前に、人は常に立たされているのであって、可能性の前にして、そして、事実の上に立脚しているわけです。
事実と可能性はセットになっているのであり、対を為しているとも言えるわけです。
今が事実なら、未来は可能性とも言えるわけです。
ただ、今自分がここにいるという事実がひとつなら、未来としての可能性はひとつではないわけです。そのようにして、人は常にどのようになるか分からない事態にも立たされているわけです。
今立っている「事実」の上に足を乗せつつ、踏み出す半歩先の未来は常にどこにあるのか分からない形に、開かれているわけです。
解放され、開かれた可能性を前面にして、今という事実の上に乗っているわけです。それはまるで、高くそびえたつ山の頂上の崖っぷちに立ち、崖の下に落ちそうになりながらも、広く遠くを見渡しているような状況です。
確かに一歩間違えれば谷底まで落ちてしまいそうな不安がありつつも、そこから見える景色は、自由で無限な広がりがあって、壮大であって、鳥のように飛び立ってしまいたく衝動にも駆られるわけです。
可能性に満ちています。
可能性はあくまで可能性であって、事実ではないわけです。決してそれは事実ではなく、当てにならないわけです。
いくら、何らかの確率を上げようとも、あくまで確率であって、確実ではないわけです。
事実はひとつですが、可能性はひとつではないわけです。
受け入れがたく感じる未来も、あくまで未来であって、可能性であって、実現する可能性はあっても事実ではないわけです。それは、いくら考えても、いくら想像しても、可能性の話であって、受け入れようが受け入れまいが、それは可能性に過ぎないわけです。
その事をいくら不安に思って、嫌がって、心を重くしようとも、事実ではないし、可能性にもがいているにすぎないし、人はそんな不確かな事に不安や絶望を抱くわけです。
それは、事実と可能性は対であるが故であり、でも、いつだって私たち人間は事実に立脚しているわけだから、可能性は可能性に過ぎないんです。