世の中にはいろんな物語があります。小説などのいわゆる物語もありますが、広義にはもっと色んな物語があります。
大雑把に言えば、人の「話」もある意味物語と言えます。その話が本当かどうかはそんなに重要ではなくて、信じるか信じないか、という事もありますが、でも、その話にある道筋があって、流れがあって、論理性があれば、それは物語になるわけです。
その意味で、物語とは、論理性のあるものと言えます。そう言うと、小説の話など、物語の中には、論理性が無いもの、あるいは、論理性は分からないものもあって、では、それらは物語ではないのか、と言うと、もちろん物語ではないわけではなく、物語なのですが、その物語を読む自分が物語として理解できなければ、自分にとってはその物語は物語にはならないわけです。
物語はたくさんありますが、自分にとってその物語が、“物語性(ものがたりせい)”を持つかどうかが重要であるわけです。
国も会社も、あらゆる共同体も、それらの物語を物語として理解できれば、それらは自分にとって十分に機能する物語です。
物語が事実とは違う点が面白いわけですが、物語は、事実かどうかは別に、想像するものであって、国家も「想像の共同体」というわけですから、いかに自分の中に想像できるか、共同体として想像して国家として解釈できるか、そのような事が重要であるわけです。
ですから、物語としての国家観は、人によって違っていて、国家として想像しているものは人の数だけあるわけです。
人は知らず知らずのうちに、自分の中に想像した物語を生きています。物語の中を生きています。
物語は想像するものですから、曖昧でもあり、とは言え、筋道もあり、自分にとっては何らかの論理性を持っています。自分にとっての論理性がその物語に無ければ、それは意味が分からず、意味が無く、物語として機能しないわけです。
また、物語は想像するものという意味で、展開性があります。
自分の中の物語は、自分の人生を支える重要なものであると同時に、その物語は常に発展していて、広がりがあって、自らもその物語に広がりを持たせようとしているわけです。
想像ではあるわけなので、どうしたって曖昧で、想像した物語の世界の縁は明確ではないわけで、でも、その物語の縁は常に広がる余地があるわけです。物語の先の道は開拓され、先に進んでいく余地があるわけです。
そのようにして、人は自分の中に自分の物語を想像し、その物語の中を生きようとするわけです。