人は事実を変えたいのか、あるいは、認知を変えたいのか。
認知の活動は、まさに自分が生きている事そのものであって、生きている事を豊かにしたかったり幸せを感じたりしたかったら、やはりそれは、自分の認知を確かにする事だと思います。
事実がどうであれ、自分の認知が確かで、それで満足し、幸せに感じられるなら、きっとそれでいいはずです。
死というものを恐れるとしたら、年齢的に死に近づいたとしても不幸にならないという事実は、認知がいかに重要であるかを物語っています。
逆に言えば、認知しだいでは、年齢的に死が遠くにあっても、死に怯えて暮らす事になるわけです。人間は、どのように認知するか、という事が重要であるわけです。
ですが、人間は間違いなく、自分の身体という現実、あるいは、事実に立脚しています。身体無くして自分は絶対にありません。
自分は確かに自分の身体に基づいて今ここに居て、そして、今を感じ、幸せを感じ、豊かに感じるわけです。
感じるという感情もまさに事実であって、身体に基づく身体反応であって、その事を決して人間は無視できないわけです。
いかに強固な認知で自分の身を固めても、とてつもなく大きな感情の波を押し寄せてきたら、感情の波に飲み込まれ、認知なんか押し流されてしまいます。
私たち人間は、その意味で事実に基づくとともに、認知に基づくのであり、どちらも確かに自分が生きるという事においては重要な事であって、どちらかを正しく運用すればそれで十分、という事はないんです。
毎日の暮らしは確かに事実であり、昨日の暮らしも今日の暮らしも似たような暮らしであって、ある種、退屈な暮らしかもしれないわけですが、その意味では、事実としての暮らしを変えない事には、自分が生きるという事は変えられないわけです。
昨日も今日も明日も、同じような事をやって、同じような事を感じ、考えていても、それは当然何も変わらないわけで、事実はやっぱり変えないと、自分の人生は変わりません。
ですが、それは同時に、昨日も今日も明日も、事実と同様に認知も変わらないわけで、それでは、自分の人生は何も変わらないわけです。
とは言え、事実は変えられるわけです。今日、昨日と違う事をすれば、それは確かに事実が変わるわけで、それに伴って自分の「生きる」も変わるわけです。
同様に、事実は変わらないとしても、認知を変えれば確かに昨日と今日とでは明らかに違うわけで、認知も自分の「生きる」を変えてくれるわけです。