人はあらゆるものに「意味」を貼りつけます。その対象に対して、人から教わろうが、自分で見出そうが、いずれにしても、意味を貼りつけるわけです。意味を貼りつける事で、理解し、納得し、落ち着くわけです。
そのようにして、あらゆるものを触(さわ)れるものにして、それらとともに生きていくわけです。
意味が分からないと、人は混乱するわけです。落ち着かないわけです。だから、何としても意味をつけたいわけです。
確かにそれは正確な意味づけである事が望ましいわけですが、それが難しい場合には、自分なりに意味付けが必要であるわけです。意味づけが為されなければ、触る事も出来ず、足場にする事も出来ず、さらに先に突き進む事も出来ないわけです。
自分が頼りにする世界は、自分の中の意味の集合のようなところがあって、自分なりに意味をつけて、意味で構築して、意味で張り合わせてつなげて、形づけているわけです。
それは、意味の世界であり、物語でもあるわけです。自分なりの意味から成る物語の世界であるわけです。
頼りないですが、自分なりの、自分だけの、でも、自分が納得する世界であるわけです。
とは言え、自分が生きている世界は、自分の意味から成る世界だけではありません。
まずは、世界があって、その世界の中に自分がいるわけで、ただ、自分がその世界の中で生きていく為に、自分なりの意味付けした世界が必要であるわけです。
でなければ、目をつむって歩いていくようなものであって、一体どこに行くのか、また、そもそも、どこを歩いているのか、何の上を歩いているのか、その前に、どこにいるのか、それすらも分からないわけです。
ですから、ひとつひとつ、松明に火を灯すように、意味を貼りつけ、意味のピースで歩く足場を埋めていくわけです。
意味のピースを足場に置く事で、動ける範囲が広がるわけです。足場の無いところに足は踏み出せませんが、そこに自分なりの意味の足場を置く事で、頼りなくとも、足を踏み出せるわけです。
そのようにして、自分なりの意味の世界を広げ、活動の場を広げていくわけです。
確かに、自分が貼り付けた意味は自分だけの意味であり、頼りないわけですが、それでも、それを頼りに生きていくしかなく、でも、意外と頼りになるんです。
そのようにして、人は、あらゆるものに意味を貼りつけ、意味を見出し、意味のピースを広げて、世界を広げていくわけです。頼りないですが、そうやって意味の世界、自分の物語の世界を足場に、人は生きていくんです。