毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

想像とは何だろうか。

想像する事は、日常的な事であり、毎日必ずやっている事であり、習慣であり、自然である事です。

実際、想像するといったとき、それは頭の中でイメージする事であり、表象という形で現れているわけです。同時に、それは固まった画像としてではなくて、動的な展開もあるわけで、画像というより映像かもしれませんが、とは言え、明確な映像と言えるほどの事でもないかもしれません。

その意味で、確かに、想像とは、一枚の絵のようにイメージされたものとも言えるわけで、そこに人は夢を描く事もあるわけです。

夢というイメージを想像によって描くわけで、その意味でイメージでもあるわけです。

もちろん、想像は良いものばかりではなく、良ければ空想として展開する事もありますが、想像が妄想に転じる事もあり、幻想を抱く事にも転じます。

ネガティブな想像は、イメージとして展開するだけではなく、頭の中には言葉の断片がたくさんありますから、言語の作用と相まって、思考の助けを借りて、想像が煩悩にもなりうるわけです。

その意味で、想像は楽しい行為である反面、煩悩にも転じるものでもあって、楽しいだけとも言えず、苦しみの元にもなり得ます。

取り扱いが重要であるわけです。

とは言え、人間はいつでもどこでも、毎日のように、暇さえあれば、想像してしまう生き物ではあるわけです。

きっと脳がそうせざるを得ないように出来ているわけで、脳にとって想像は必要であり、しなければならない事でもあるわけです。

ほぼ自動的な行為としての想像であって、意識的ではない、学習して身につけるものでもない、先天的に備えた行為とも言えるわけです。

話を戻すようですが、その意味でも想像は楽にできる行為であり、楽しい行為でもあり、自由で心地良い行為でもあるわけです。

ですから、想像する事が好きな事は良い事と言えるわけです。

そのような事であれば、想像は自分にとって良いものにするべきであるし、悪いものにならないように気を付ける事でもあります。

人は想像する事を息をするように行い、食べる行為よりも容易に想像し、いつでもどこでも想像し、想像とともに生きているわけです。

生きている事と、想像する事は、まるでセットで行っているようなものです。いつもそばに想像があります。

好きとか嫌いとか関係なく、人間は想像とともに生き、目的無しに想像するわけです。

その意味で、想像とは、表象でありイメージであるとともに、夢を抱く、物語として空想し、または妄想し、思考とともに煩悩に苦しみ、でもそれは、呼吸のようであり、食べるよりも容易で、自然な行為であり、自由であり、生きる事とともにあるという事です。