人は、編み込まれた物語の上に、あるいは、物語によって編み込まれた下地を基盤として生きていると言えます。
自分自身が、現代の国家の成員として、つまり、国家の国民として認識して生きているんだとすれば、それは、知らず知らずのうちに、国家という物語によって編み込まれた下地を基盤として生きている、という事になるわけです。
別に、国民という概念を持ち出さなくても、市民という概念でも、特に大きな違いはなく、市民を形作る物語に基づく下地が、自分自身を市民として支えているわけです。
もちろん、その事自体は特に問題ではなく、ごく自然な事です。
構造主義は、人間が想像する意味の構造の事を言っていて、それは、言語であれ、国家であれ、何であれ、ゲシュタルト的に、人間にとっての対象を意味あるものとして生成するわけです。
人間にとっての意味の理解は、物語を元に想像したイメージであり、もしくは、構造であるわけです。人はそのようにして、物語から意味を生成するわけです。
人は意味を生成して生きていく生き物ですが、意味は人間が生きていく上で重要です。
ジョセフ・キャンベルの神話の構造においても、意味に関して重要な事を言っています。英雄の旅というのは、英雄にとっての生きる意味を示しているわけですが、それが神話として現代まで語り継がれてきたのは、人々にとって英雄の旅が心を打つのであり、心に響くのであり、そのように生きる事に心が強く動かされるからです。
英雄の生き方というのは、どこかで、自分たちにとっても、そのように生きたいという願いがあるわけで、生きる希望や生きる力に関わるわけです。
つまり、キャンベルの神話の構造は、人間の生の構造、つまり、人生の構造を示しているわけで、人はそのようにしていきたいと願っているわけです。
神話の構造も、やはり、物語に支えられているのであり、英雄の物語が、自分の中に生きる意味を想像させるわけで、それが、生きる意味というイメージを自分の内面に形成するわけです。
形成されたイメージが、生きる意味という構造であり、つまり、人生の構造と言えるわけです。
近年は、主観的なウェルビーイングの5つの要素が注目されていて、その中に「生きる意味」というものがあります。それは、神話の構造で提示されたものであり、つまり、人生の構造としても理解できるように思います。
そのような生き方こそが、人生に生きる意味を与え、生きるエネルギーや生きる力を与えてくれるように思います。