人は、想像性の仕組みを持っていて、想像する事が生きるエンジンであり、生きるエネルギーであると思っています。
色んな事を想像する事によって、人は自分の心の中に、何らかのイメージを想起するわけですが、それが自分自身にとって確かな理解を得るわけです。つまり、イメージを想起する事で、「分かった!」となるわけです。
そのような事を、人は、物語を通して理解するわけです。物語は、体験として時間軸に沿ったイベントの羅列、もしくは、順序立てられたイベントによって論理的に理解するわけですが、実際には、それによって納得感を得るわけです。それが、上で言った「分かった!」となるわけです。
物語は、言い換えれば、言葉であり、文章であるわけです。ソシュールは、言語の構造を説明したわけですが、時間軸に沿った、順序だった文字の羅列によって、つまり、そのような文章の構造によって、その文章を理解するわけです。これを、人間の脳は、論理的に理解したと思うわけです。論理的思考とはそういう事です。
ベネディクト・アンダーソンの想像の共同体は、国家の成立について説明したものですが、国家とはつまり国家という共同体の物語であるわけです。国家を成立させる物語があって、その物語をその国民の成員だと思っている人々は論理的に、でも、無意識に理解して、そして、想像の産物である国家の構造を理解するわけです。
つまり、国家を成立させる物語によってその共同体を想像し、国家という共同体のイメージを、心の中に形成するわけです。形成する事を通して、国家を理解するわけです。
したがって、私たち人間は、物語によって多くの事を、イメージする事で理解するわけです。私たち人間の理解とは、そのような仕組みであるわけです。
人間にとっての「分かった!」という感覚、もしくは、納得感は、ひとつの喜びに似た感覚であって、何か人に快の感情をもたらすわけです。ですから、人は、物語を人は求めているわけです。
そのようにして人は、物語を求め、そして、心の中にイメージを形成するとともに、理解を得るわけです。
そして、物語で形成された、もしくは、物語で編み込まれた自分自身は、また新たなる物語を求め、そして、その物語によって新たに想像し、そして、新しいイメージの形成とともに、自分自身も新たに形成されるわけです。
人間の生の構造というのはそのような仕組みになっていて、構造が新たな物語により再構築を繰り返していく事によって、人間は生きていくわけです。