人は日々色んな事を考えていますが、考える為の材料としての言葉の断片が同じものであるならば、考える事の内容には制限があって、自分の考える範囲を広げるには限界があるように感じます。
人が考える場合には、言葉を使わずにはおれないわけですから、どうしても、言葉の種類や言葉の使い方の種類が多くないと、いかようにも、考えに広がりを持たせる事はできません。
例えば、言葉を100個知っているとしたら、言葉の数の組み合わせの総数が考える事の限界であって、その中で、新しい言葉を仕入れずに考える事を続けたとしても、考えうることの範囲は変わらないわけです。
ですから、どうしても、新しい言葉や言葉の使い方を仕入れる必要があって、そのようにしてはじめて、新しい事が考えられる、そういった側面はあると思います。
ただ、言うと人間は言葉だけに頼って考えているわけでもなくて、心がいかようにも動かなければ考えようもないわけで、それ以前までは全く心が動いていない中で使続けていた言葉が有効でなかったものが、心が連動するようになって、言葉に有効性が生まれる、という事も起こり得るわけですから、人が言葉と、どう付き合うか、また、どう関わるか、といった事も重要になります。
また、1つ1つの言葉を、単に使うだけではなく、いかに深く理解するか。そういった事も重要になります。言葉には深い意味が含まれている事がありますから、それらを理解せずに使い続けていても、言葉の使い方が浅いままになって、考えもまた、浅いままになり続ける、という事も起こります。
ですから、言葉の数を増やすということも重要ですが、1つ1つの言葉を浅い理解のままにせずに、より深い理解をする事も大切です。
ひょっとすると、使っている言葉のほとんどをただ使っているだけで、その深い意味を全然理解していない、という事も十分にあり得ます。
その場合、考えはずっと表層をなぞるような感じになって、ほとんど言葉遊びをしているに過ぎないままになってしまいます。
それでは、いくら考えても、それはただ手遊びしているだけになってしまって、思考はいっこうに深まらずに、理解を進まず、考えているつもりが、何も考えていない、という事になりかねません。
その意味で、人が考えると言っても、それは、意外に簡単な事ではなく、言葉の数やその使い方も足りなければ、言葉の理解も足りていないかもしれないわけです。
そして、考えているつもりが、ただ言葉をこねくり回して、言葉遊びしているだけで、何も考えていない、という事態にもなりかねないという事です。