毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

何も考えずにジャーナリングするのは難しい。あえて普段と違う事に自分を晒す。

たまには、何も考えずにジャーナリングをするのが良いと思うわけですが、これが案外難しいわけです。

「何も考えずに」というところがポイントで、人は気が付いたら何かを考えていて、そして、いつも同じように、気にしている事を考えているわけです。

ですから、出来るだけ何も考えないようにするという事がポイントなんです。

ですが、上に言ったように、「何も考えずに」という事自体がそもそも困難であるわけで、いかにいつも考えている事を避けて、普段考えていない事を考えるようにするのか、という事が重要であるわけです。

その意味では、確かに、「何も考えずに」という態度ではなくて、何か普段とは違う事に自分を「晒す」必要があるのかもしれません。

普段見ないようなテレビをぼーっと観ていると、気が付いたらそのテレビに夢中になっていて、普段考えないような事をそのテレビの影響を受けて考えてしまうわけです。これも、ひとつの「何も考えずに考える」というか、「普段何気に考えてしまうこと避けてそうではない事を考える」方法と言えるかもしれません。

人は何かに注意を向ける傾向を持っていますから、確かに何かに意図して考えていなくても、頭の中にある思考の断片に注意が引っ張られて、無意識に考えてしまいます。ですから、敢えて何か違う事に注意が向くように、自分を晒す必要があると言えます。

思考とは、言葉が生成する事でもありますから、頭の中の言葉の断片を、無意識に思考の材料として拾ってしまうわけですから、その意味でも、自分をそのままに放っておいて、何も考えずに考えるという事は難しいわけです。

普段と違う事を考えるとは、普段と違う言葉を使うという事でもありますから、独り言のように、普段の自分の言葉を単に使っていてはいけないわけです。

自分の備えた言葉と、文章構造と、文章表現を活用してしまえば、当然生成される文章は、いつもと同じになるに決まっています。ですから、自分の備えているものを使わずに、考えるという事をしないといけないわけです。

ですから、「何も考えずに考える」という事は、よく考えたら本質的にできないわけですから、ちょっと工夫して、普段と違う事に自分自身を晒して、ある意味、自分ではない自分になって考えるという事です。そのように自分をあえて仕向けながら、ジャーナリングが出来ると、いつもと違うジャーナリングになって、違う思考と違う言葉から成る、今までとは違った文章と考える事につながるわけです。