毎日の哲学の断片をつづるブログ

日々哲学することを習慣とし、思考と言葉をつづる

生存のためではなく、目的のために生きる。

人には実存という問題があります。自分自身はすでにこの世界に放り出されているわけで、既に存在しているわけです。ですが、存在している理由なんてものはありません。

 

自分自身とは何で、どのように生きるべきか、なんていう、意味や目的なんてものは最初からなく、それ以前に自分自身は存在してしまっているわけです。

 

生きていくというときに、生きるための目的はないんです。

 

一方で、人間は生物進化の歴史の上で生きているわけで、進化論における自然選択説の中で、淘汰圧を感じながら適応的に生きているのです。生存に関わるプレッシャーは本能の部分に作用しますから、人間は必死に生き延びようとするのです。自然なことです。

 

ですから、淘汰圧の下では、人は生存のために生きようとするのです。

 

そのように考えると、そのような状況下では、人は容易に、生存のために生きようとするわけです。生存することが生きようとする理由になり、目的になるのです。

 

適応的な生存戦略は、この世界では常に求められ、現実問題としてそのようにして生きざるを得ない面もありますが、その生き方は苦しさから逃れようとする生き方でもあり、幸せや喜びとは関係のない生き方でもあります。

 

生存が脅かされると、ストレスや不安でいっぱいになりますから、それらをいかに軽減し、解消するか、このような生き方になってしまいます。

 

確かに、ストレスや不安を克服した先には安心で快適な生き方が待っているとも言えますが、幸せとは違うわけです。

 

ですから、人は「生存のために生きる」のではなく、「何かのために生きる」。そのように生き方の戦略を変えていく必要があるのです。

 

生存のために生きるとは、生きるために生きるという言い方になっていて、文章としてはトートロジーになってしまっています。

 

そうではなくて、何かをするため、何かのために生きるということです。

 

何かをすることが目的であり、生きることは手段です。

 

人間にはネガティブバイアスがかかっていますから、容易に生存することを目的として生きようとしてしまいますが、それを克服して、目的のために生きるという方向に生き方を切り替えていかないといけないです。

 

自分の目的を自ら打ち立てて、その目的のために生きるんです。その生き方は大変かもしれませんが、その生き方こそ自由の生き方です。

 

人は自分のために生きていくことができるし、自由に生きていいのです。目的があって、そのために生きていくのです。