毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

人は余白を求めている。

人はいつだって余白を求めています。何かを追求しても、その先に、スペースを求めているわけです。

スペースというのは余地であって、何かをする事が出来る余地です。その先に、何か大きなスペースがあると信じて、その先の余地にある潜在可能性の為に、今頑張っているわけです。

それを、リソースと言ってもいいのかもしれません。つまり、資源です。

人は資源が無くなる事を凄く恐れているわけで、資源の開拓のために、どこまでも行こうとします。その為なら、地球から宇宙に出て行って、他の星も探し出すわけです。

どこか新大陸がある事を期待しているわけです。自由に開拓できる手つかずの大陸です。

これもつまりスペースであり、余地であり、余白であるわけです。

余白というのは、未開拓の自由の地です。つまり、余白とは自由とも言えます。

人は自由を求めているわけですが、それは余白とも言い換えてもいいわけです。

人は有限か無限かどちらが良いかと言えば、明らかに、無限です。良いというより必要です。

無限性を無くしたら、逆に言えば、有限性を感じたら、人は急激に追い込まれます。資源の話と同じで、有限性を感じると、資源の奪い合いのような状況になります。

若いうちは人生は無限ですから、なんてことないですが、ある年齢に達すると、人生が有限である事に嫌でも気づかされます。人生が一段苦しく重いものに変わります。

これも余白を求める事を意味します。

何か目標を掲げ、明確なゴールを掲げながら、実はそのゴールの先に、スペースが広がっている事が重要なのです。ゴールに到達してそれで終わりになったら、それは、実際のところ、ゴールとしては良くないわけです。

ゴールには、必ずその向こうに大きな余白が広がっていないといけません。

その余白で、もしくは、そのスペースで何をするか。何もしなくていいんです。

何かをする予定のスペースではないんです。何かをする予定があったら、それはすでにスペースでも余白でも何でもありません。

何も計画されてない、予定されていないスペースだからこそ良いわけです。

そこでは、何をやってもいいんです。何もやらなくてもいいんです。

その空間は真空であって、宇宙のようなものです。何も無いんです。そして、広ければ広いほど良いわけです。

余白とは、スペースであり、空間であり、余地です。そして、資源であり、無限であり、そして、自由であるわけです。人はそのような余白を求めています。今頑張っている、その先の、その向こうの、潜在可能性のある、余白です。