人は身体に基づいて適応して生きています。身体の基本的な、本能的な部分が、生存を優先する事に適応的に生きていこうとするわけです。
産まれてから、学校生活も、社会の中での生活も、仕事に就く事も、収入を得る事も、家族を作る事も、みんな生物としての身体に基づいた適応と言えるわけです。生存確率を上げる生き方です。
ある意味において、適応する事は、そんなに考えなくても出来る事で、やってしまう事と言えます。人は生存に関わると、勝手に適応的になるわけです。
生存するのに有利になるように、無意識に適応するわけです。不利な生き方をすると生存が脅かされますから、必ず不利になる事を避けようとします。同時に、有利になる事を無意識に選択して生き延びようとするわけです。
この生き方は、基本的には生物一般に見られる事で、少なくとも、他の哺乳類も生存本能にしたがって自分に有利になるように生きるわけです。
哺乳類だけではなく、爬虫類もそうだし、恐竜もそうやって生きていたんです。
ですが、このような生き方は、生存するには有利かもしれませんが、幸せとは関係ありません。
生きた心地とは関係ありません。心に余裕のある生き方とは関係ありません。生存する為には、心の余裕を持ってのんびり過ごすより、もっと合理的に今すぐ判断してやる事があるからです。
そうやって、人間は生存する為に適応し、過剰適応になるんです。
適度に適応する程度なら、幸せに生きる事も多少平行してやっていけますが、過剰に適応して生存確率を高めようとすると、幸せを感じる余地は無くなり、生きた心地は無くなります。
もちろん、生存確率があまりに低い生き方をしていると、幸せどころか、生きていく事自体が困難になります。
人は生存して初めて幸せを感じられますから、最低限の適応は必要ではあるわけです。
とは言え、幸せを感じて生きていきたいなら、生存する事ばかりにならない事です。生存する為に適応する生き方は、幸せを感じる生き方と逆の相関があります。
ですから、生存の為に生きるのはそこそこにして、幸せを感じて生きていこうとする事が大切です。
過剰適応から解放されて、自由になって、幸せを感じて、心の余裕を持って、生きた心地を感じながら生きる。そのような生き方について、真剣に考えるべきです。
適応的に生きる自分自身の内部では、自由を渇望する真の自分がいます。その自分をないがしろにはできません。自分を解放して、自由になって、幸せに生きる。生きた心地を感じながら生きるんです。