毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

何事も「楽しむ」という姿勢によって上手くいく。

何事も「楽しむ」という姿勢が良いのではないでしょうか。色んな事実からするとそう思います。根拠を持ってこなくても、色んな人を見てそう思います。

 

逆に言うと、何事も楽しまずにやっていると、上手くいかない気がします。実際振り返っても楽しめていない事は上手くいってなかったように思います。結果論からすると、楽しまずにそれをやっても上手くいきません。なので、明らかな事として、楽しまずにやっているとそれは上手くいかないようにやっているのと同じだという事になります。

 

そういうわけで、何事においても楽しんでやることが良いに決まっているわけですが、それでも、どうにも楽しんでやれない。これが悩みになります。色んな不安や身体のコンディションが、何故か楽しんでやることを阻んでしまいます。

 

確かに、日々楽しい事ばかりではありません。嫌な事もあるし、つらい事もあるし、やりたくない事もあります。でも、それらの事ばかり気にして、楽しむ心を失ってしまうと、やっぱり上手くいきません。そこには何か、意識する事、注意する事、工夫する事が必要な気がします。

 

例えば、1日の中で色んな事をやると思いますが、その中から1つでも楽しむ事を見つける事が大切ではないかと思います。1日の中に1つくらいは楽しい事はあるはずです。今日という日が会社で仕事をする日だとしても、仕事そのものではない事が楽しい事の1つかもしれません。それでも、それを1つ見つける事ができたら、それを楽しむ事が大事なように思います。もちろん、仕事そのものから楽しい事を見出す事も大切だと思います。

 

そしてきっと、1日の多くの事の中から発掘した楽しむ事が、上手くいく事につながるんだと思います。そして、上手くいった事がまた楽しい事になって、その事自体が楽しい事としてはっきりと認識できるようになると思います。そうなれば、あとはそんなに意識しなくても、いつだってそれは楽しい事で、そして、セットでそれは上手くいく事になると思います。とても良い循環です。

 

何かを楽しむ事は、それ事自体が楽しいからではないのかもしれません。それ自体は楽しい事でも楽しくない事でも何でもないんだけど、自分自身がそれを楽しもうとする事ではじめて楽しい事になるのではないかと思います。なので、何事においても、それを楽しむという心がけがとても大事だと思います。それには、意識や工夫が大事で、1日1つでいいから楽しむ事を見つける事が最初の一歩のように思います。

背筋がまっすぐに伸びた姿勢でありたい。腹筋とセルフケア。

出来るだけ背筋がまっすぐに伸びた姿勢でありたいと思う今日この頃であります。

 

私自身本来猫背の姿勢でありますから、何かと良くない事は多いわけです。例えば、猫背の姿勢のため、言うまでもなく肩こり、首こりに悩まされています。パソコン作業では、ディスプレイを見ている時に知らず知らずのうちに顎が前に出てしまっています。この「知らず知らずのうちに」の時間が数分程度なら改善の余地もありそうですが、1時間も2時間もそのままの姿勢だったりすると、それはもう肩こり、首こりに直結します。

 

もちろん、それは、頭痛にもつながります。肩、首を介した血流が悪くなりますから、当然と言えば当然です。たまに、イブプロフェン入りの頭痛薬を飲んでいますが、実際頭痛を感じなくなるだけで、頭痛の原因が改善したわけではありません。やっぱり猫背は良くないわけです。

 

問題の1つは、猫背が定着してしまっている事です。猫背が癖になっていると言ってもいいかもしれません。なので、いつでも、背筋を伸ばして、顎を引いて、良い姿勢を保つようにしないといけません。知らず知らずのうちに猫背にはなってしまいますが、それでも負けじと、心がけで、背筋を伸ばすという事です。

 

そして、背筋が伸びた姿勢を維持する為に、腹筋を鍛えるという事です。猫背になってしまう要因の1つは、腹筋が弱い事です。腹筋が弱いから、背中が丸くなって猫背になってしまいます。背中を丸くして猫背にすると、しばらくは楽になります。ですが、楽だからと言ってもそのままにしていると、結局猫背が癖になってしまいます。なので、常日頃から腹筋を鍛えようと思います。

 

朝は決まって筋トレを習慣としてやっていますから、その意味では腹筋は多少鍛えています。ですが、朝の軽い筋トレだけでは足りないのかもしれません。なので、夜も腹筋を習慣としてやっていこうと思います。夜も余裕があったら腹筋を鍛える。とても良いと思います。

 

そして、夜はさらに、セルフマッサージやセルフストレッチをやろうと思います。余裕のある時はやっていますが、まだ十分とは言えません。背筋を伸ばす事を意識して、肩や首だけではなく、骨盤回り、股関節回りを柔軟に保つようにしようと思います。

 

そういうわけで、出来るだけ背筋がまっすぐに伸びた姿勢である為に、姿勢を真っすぐにする事をいつも心がけて、朝だけでなく夜も腹筋を鍛え、そして、セルフケアとしてセルフマッサージやセルフストレッチを行って、骨盤回りや股関節回りを柔軟にして姿勢を改善しようと思います。

信じる事とお金。

信じる事とは、信頼とか信用とか、そういった事と関連しますが、人間にとってはとても重要な事だと思います。信じる力とは、能動的なものに基づいていて、それを支える事無しに為されるものです。なので、それを実践するのは実際困難です。ですが、信じる力があると、それが人間にとっては本当の力になります。一体どのように培っていけばよいのでしょうか。知りたいものです。

 

信頼とか信用とかで思いつくものが、お金です。お金は信用を代替するものであり、確実性が高く、かなり融通が利いて、多少変動するものの、色んなものと確実に交換する事が出来ます。お金は持っていれば安心で、実質生きていく上で非常に役に立ちます。生きる為に必要な食べ物を手に入れる事が出来るし、住む場所も確保できます。この社会の中で生きていく上で欠かせません。

 

その意味で、お金とは安心です。人間社会の中で互いに共有できる価値です。価値の代替物です。人は安心感が無ければいつも心細く生きていくのは困難ですが、お金を保有する事で安心感を得て生きていく事を楽にします。

 

信じる事に話題を戻すと、信じる事は不確実性の高い事に対してその力を発揮するものです。お金は確実性が高いものとして価値がありますが、信じる事は確実性を保証しません。不確実性は安心とは程遠く、確実性は安心をもたらしてくれます。その意味で、お金と信じる事は対称的な関係にあります。

 

信じる力は、その対象が人間の場合にその力を発揮します。例えば、人間からの信頼を獲得するのは困難な事です。人の心がどのようなものかは分かりません。自分から見て他人の心をコントロールする事は出来ません。たとえコントロールできたとしても、それはそれでその人からの信頼を獲得したとは言えません。なので、人を信じる為には、その支え無しに行われなければなりません。人を信じる時、自分自身の能動的なもの以外からは成り立ちません。

 

そんな不確かな「人を信じる」という事に対しても、人は信じる事を大事と言います。お金のように確実性が高くないのに、信じる事が大切である事を人は知っています。ロジック的には、信じる事の不確実性より、確実性の高いお金の方が便利なのに決まっているのに…。それでも不確実性の高い「信じる事」を大切にします。

 

人が「信じる事」を容易にできるなら、お金のようなものは生まれなかったでしょう。信じる事が確実なら、お金は要りません。確実に多くの事が為されますから。だから、確実な事にはお金によって代替できるようにし、不確実な事にはやはり他の支え無しに、自分だけを頼りにして信じるしかないでしょう。信じる事は、不確実な事の為にあるのでしょうし、人との間で必要な力なのでしょう。

煩悩とメディアは相性が良い。想像と実体が混合し拡張する世界。

煩悩とメディアの相性が良すぎるというのが、人間の脳にとっては大きな問題なように感じます。問題と言っても仕方ないのですが、どうにもメディアの情報というのは、人間の脳にとっての煩悩の資源になってしまうので、いつでもスマホをいじれば煩悩を生み出してしまって、本当に困ったものです。

 

人間というのは、ほぼほぼ煩悩とともに生きていると言っても過言ではないので、煩悩の餌としてのメディアの情報を与えられると、ずっとむしゃむしゃと食べ続けてしまいます。いつだって美味しいならまだしも美味しいだけでもないので、味に関係になくつい口に入れてしまって、とは言っても、いつも消化良く排泄されるわけでもなく、煩悩として脳内にあり続けてしまいます。何とも煩悩とメディアというのは、人間にとって良くも悪くも相性が良いわけです。

 

仏教では、脳内であれやこれや真理でない事を想像してしまう事を妄想とか呼んだりしますが、これも煩悩の産物と言っても良いのかもしれません。主観的な人間にとっては、ありとあらゆるものは、想像上のもの、想像上の世界として捉えているわけですが、もちろんこれも一種の妄想であり、煩悩の産物の場合もあるわけです。

 

想像と言うと例えば、「想像の共同体」というものがあります。この見方によって国家というものを捉えた場合、いかにしてメディアの情報が想像上の国家を想像させるかなんですが、煩悩という脳を介した想像の共同体は、人それぞれいかようにも多様に捉えられ、想像されてしまうので、人それぞれの想像する国家というものは他の誰とも互いに交わりようがありません。そして、世界で今起こっている戦争をメディアを通して見ていると、一体何の国家間の争いをしているのか、もはや分からない状況と言っても全く過言ではありません。仮にどこかの国家元首イデオロギーに合わせた国家観でその争いを理解しようとしてみても、果たしてそれがどれだけ問題の解決の役に立つのか分かったものではありません。よほど、普通に歴史の教科書を読んだ方が、他の多くの人との国家観を共有できるような気がしてきます。

 

人間の煩悩というものは、人間にとって容易に否定できるものでもなく、消去できるものでもなく、むしろそれによって実社会は作られてきたように思います。そして、メディアはそれ自身の性質によって発展してきたというより、煩悩の性質によって発展してきたと言え、媒体としてのメディアが触媒として実社会に煩悩を再現し、さらに拡張しようとしています。人間の煩悩は絶え間なく活動し、メディアと相まって、メディアを介して、これからもいっそう想像と実体を混ぜ合わせながら世界を創造していく事でしょう。

仏教。苦しみと煩悩を抱え、諸法無我として諸行無常の世界を生きる。

仏教の考え方の好きなところは、まず「人間は苦しみを抱えている」という事を真理として考える所から始める事です。まず人間には前提として苦しみを抱えていて、その苦しみをいかに和らげるか、軽減させるかという事を認める所から始める。とても理に適っていると感じます。

「生まれる」という時点から苦しみが始まっているというところを認めているというあたりが、すでにハイデッガーが言う「世界内存在」を包含している感じがします。そもそも、この世に存在するという事自体が苦であるという、人間そのものである事が苦である事を認めて、その地点から初めて冷静に生きていける。そんな感じです。

そして、苦しみの原因とは何かと言うと、「煩悩」であるというあたりも、なかなか上手く言ったものだと思います。欲望だとか嫉妬だとか、そういった大袈裟の事が原因であると言っているのではありません。煩悩とは、文字通り煩い悩む事です。誰もが抱えています。煩悩から逃れることなど、人間であれば到底できません。ですが、凡人には到底逃れられない煩悩を苦しみの原因であると認めているわけですから、こんなに清々しいものはありません。おっしゃる通りです。苦しみを抱えております。

その上で、苦しみから解放される方法が、「煩悩を滅する事」なわけで、それが出来れば悟りも開けるというわけですが、もちろんこれも到底出来る事ではありません。それでも何とか煩悩を滅する事を日々取り組む、とても良い姿勢だと思います。いかに煩悩を滅するか。一生かかっても出来るかどうかわからない。それくらいの取り組みです。

諸法無我とは、まさにその事を言っていて、煩悩を抱えた私たち人間は、無我の境地に至るなどという事も、到底出来る事ではありません。それでも確かに真理は諸法無我であって、永遠不滅の私などという実体はそもそもないわけです。すべては縁起であって、諸行無常の世界の中にあるわけです。おっしゃる通り、大河の一滴としての私たちであり、細胞1個と等しく諸法無我であるわけです。なるほど分かりやすい。

諸行無常の世界にあって、諸法無我としての川の中の一滴の水のごとく生きる私たちは、その事を認める事で、とてもすっきりと清々しく生きていけるというものです。そして、容易に煩悩にまみれ、苦しみにまみれるのも私たち人間であって、そして、その事を気付いたときにまた大河の一滴である気持ちを取り戻すのもまた人間らしい生き方と感じるわけです。

私はそれでいいと思いますし、苦しみを抱え、煩悩を滅しようとして、諸法無我としての水や細胞のごとく諸行無常の世界を生きていこうと思います。

不眠と脳の疲れ。煩悩と諦念。

人はよく、歳がいくと睡眠の事で悩むようになります。そのひとつに、寝ている間に何回も起きてしまうというものです。中途覚醒とでもいいのでしょうか。

 

そういった事を、睡眠上の問題だと思って思い悩むわけですが、実際どうなのだろうかと思います。一般には、睡眠不足や寝つき、中途覚醒などの睡眠に関する問題は、運動不足とか生活リズムを改善するとか、色々と言われますが、そういった事をしても意外と改善されないと言って、悩み続けるというのはあると思います。

 

医者などに相談に行くと、眠れない事については「人は歳を取ってくると、睡眠時間はたくさんとる必要はないんですよ。」と言って、無理して寝る必要は無いと諭してくれる場合があるわけですが、結局そういう事ではないかと思ったりします。

 

人間というのは、実質的には、脳の問題が大きくて、睡眠に関してはほぼほぼ脳の疲労を改善するという事にかかっているのではないかと思います。人は歳を取ると智慧を身につけてくるわけで、実際多くの事が分かるようになってくるので、思い悩む事も減り、睡眠を摂ってそんなに脳を回復させる必要が無くなってくるようにも思います。

 

脳の疲労というのは、つまるところ煩悩が原因であって、煩悩が頭を疲れ果てさせるわけですから、多くの事を知る事で煩悩を減らす事によって、頭の疲れも減って、睡眠はそんなに必要なくなる。そういうものではないかと思います。

 

また、煩悩については、その煩悩を滅するという意味で、分からない事、解決できない事を、諦める、断念、みたいな事も、1つの知恵のようなものだと思います。多くの煩悩を根本解決しようとする事を諦めるという事も、1つ知恵であり、明らかにする事と言えます。そういうのを、諦念というんだと思います。

 

諦めるという事は、悪い事では全然ないと思います。むしろ真理を明らかにする事であり、知恵だと思います。この知恵によって、煩悩を減らして、結果的に、脳の疲労も減って、睡眠もそんなにたくさんとる必要が無くなってくる。そういう事だと思います。

 

そういうわけで、不眠で悩む。中途覚醒する。そういった睡眠不足で悩むわけですが、実際全然元気だったりして、実はそれを悩む必要ないのではないかと思ったりします。それより、知恵がついて、様々な諦念を経て、煩悩が減ってきたんだと思います。その結果、脳の疲労も減って、そんなに睡眠をとる必要がなくなった。そういうことだったりすると思います。睡眠に対するそういう理解も大事かなと思います。

猫背の姿勢の改善を心がける。

これから心がける事。それは、猫背の姿勢にならないように気を付ける事です。気がついたら顎が前に出て猫背の姿勢になっているので、背筋をまっすぐに改善する事です。気が付いたらすぐにです。

 

パソコン作業でディスプレイを見ている時、必ずと言っていいほど猫背の姿勢になっているので、すぐに改善する事を心がけます。ストレートネックは眼精疲労につながり、頭痛につながります。肩こりにも首こりにもつながります。そして、睡眠の質の低下にもつながります。

 

眼精疲労という意味では、目の酷使は問題です。猫背の姿勢は目の疲れに直結します。だから、気が付いたら目を休ませてあげる事も心がけます。可能な範囲で、目をつぶるようにします。目をつぶる事で、目が疲れている事を実感できます。いかに、ストレートネックになって、目がディスプレイにくぎ付けになっていたかが分かります。視線は、スマホの画面に対してもパソコンのディスプレイに対しても容易に引き付けられてしまうので、知らず知らずのうちに目が疲れ果ててしまっています。だから、可能な限り、目をつぶって視界を遮断して暗くして、目を休ませるようにします。

 

後頭部の後頭下筋群は、目の筋肉が集まっている所です。なので、目の疲れを感じたら、後頭下筋群をマッサージするようにもします。短時間ではありますが、その場で疲れを緩和できます。首こり、肩こりの軽減にもつながります。とは言え、背筋を伸ばして猫背の姿勢を改善する事は忘れないようにします。

 

眼精疲労、肩こり、首こりは、頭痛につながります。なので、それらの事に気が付いたら、全身運動によって血流を改善する事を心がけます。出来るなら、その場で簡単にラジオ体操をするようにします。首や肩を回したりしようと思います。そこに床があるなら、猫の伸びのポーズもしようと思います。肩回り、首回り、後頭部周りの血行が改善します。自律神経の失調も改善します。

 

そして、基本的な事として、猫背の姿勢に気付いて、背筋を伸ばしたら、呼吸を整えます。深呼吸をします。ゆっくり息を吸ってゆっくり吐きます。これをしばらく繰り返して、心身ともにリラックスを促します。呼吸が最も大事である事をいつでも忘れないようにします。

 

これからも、習慣として、猫背の姿勢を改善する事を心がけます。背筋を伸ばし、後頭下筋群をマッサージして、体操やヨガのポーズも行って、呼吸の意識も忘れません。そのように心がけて日常を送っていこうと思います。