毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

煩悩とメディアは相性が良い。想像と実体が混合し拡張する世界。

煩悩とメディアの相性が良すぎるというのが、人間の脳にとっては大きな問題なように感じます。問題と言っても仕方ないのですが、どうにもメディアの情報というのは、人間の脳にとっての煩悩の資源になってしまうので、いつでもスマホをいじれば煩悩を生み出してしまって、本当に困ったものです。

 

人間というのは、ほぼほぼ煩悩とともに生きていると言っても過言ではないので、煩悩の餌としてのメディアの情報を与えられると、ずっとむしゃむしゃと食べ続けてしまいます。いつだって美味しいならまだしも美味しいだけでもないので、味に関係になくつい口に入れてしまって、とは言っても、いつも消化良く排泄されるわけでもなく、煩悩として脳内にあり続けてしまいます。何とも煩悩とメディアというのは、人間にとって良くも悪くも相性が良いわけです。

 

仏教では、脳内であれやこれや真理でない事を想像してしまう事を妄想とか呼んだりしますが、これも煩悩の産物と言っても良いのかもしれません。主観的な人間にとっては、ありとあらゆるものは、想像上のもの、想像上の世界として捉えているわけですが、もちろんこれも一種の妄想であり、煩悩の産物の場合もあるわけです。

 

想像と言うと例えば、「想像の共同体」というものがあります。この見方によって国家というものを捉えた場合、いかにしてメディアの情報が想像上の国家を想像させるかなんですが、煩悩という脳を介した想像の共同体は、人それぞれいかようにも多様に捉えられ、想像されてしまうので、人それぞれの想像する国家というものは他の誰とも互いに交わりようがありません。そして、世界で今起こっている戦争をメディアを通して見ていると、一体何の国家間の争いをしているのか、もはや分からない状況と言っても全く過言ではありません。仮にどこかの国家元首イデオロギーに合わせた国家観でその争いを理解しようとしてみても、果たしてそれがどれだけ問題の解決の役に立つのか分かったものではありません。よほど、普通に歴史の教科書を読んだ方が、他の多くの人との国家観を共有できるような気がしてきます。

 

人間の煩悩というものは、人間にとって容易に否定できるものでもなく、消去できるものでもなく、むしろそれによって実社会は作られてきたように思います。そして、メディアはそれ自身の性質によって発展してきたというより、煩悩の性質によって発展してきたと言え、媒体としてのメディアが触媒として実社会に煩悩を再現し、さらに拡張しようとしています。人間の煩悩は絶え間なく活動し、メディアと相まって、メディアを介して、これからもいっそう想像と実体を混ぜ合わせながら世界を創造していく事でしょう。