毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

仏教。苦しみと煩悩を抱え、諸法無我として諸行無常の世界を生きる。

仏教の考え方の好きなところは、まず「人間は苦しみを抱えている」という事を真理として考える所から始める事です。まず人間には前提として苦しみを抱えていて、その苦しみをいかに和らげるか、軽減させるかという事を認める所から始める。とても理に適っていると感じます。

「生まれる」という時点から苦しみが始まっているというところを認めているというあたりが、すでにハイデッガーが言う「世界内存在」を包含している感じがします。そもそも、この世に存在するという事自体が苦であるという、人間そのものである事が苦である事を認めて、その地点から初めて冷静に生きていける。そんな感じです。

そして、苦しみの原因とは何かと言うと、「煩悩」であるというあたりも、なかなか上手く言ったものだと思います。欲望だとか嫉妬だとか、そういった大袈裟の事が原因であると言っているのではありません。煩悩とは、文字通り煩い悩む事です。誰もが抱えています。煩悩から逃れることなど、人間であれば到底できません。ですが、凡人には到底逃れられない煩悩を苦しみの原因であると認めているわけですから、こんなに清々しいものはありません。おっしゃる通りです。苦しみを抱えております。

その上で、苦しみから解放される方法が、「煩悩を滅する事」なわけで、それが出来れば悟りも開けるというわけですが、もちろんこれも到底出来る事ではありません。それでも何とか煩悩を滅する事を日々取り組む、とても良い姿勢だと思います。いかに煩悩を滅するか。一生かかっても出来るかどうかわからない。それくらいの取り組みです。

諸法無我とは、まさにその事を言っていて、煩悩を抱えた私たち人間は、無我の境地に至るなどという事も、到底出来る事ではありません。それでも確かに真理は諸法無我であって、永遠不滅の私などという実体はそもそもないわけです。すべては縁起であって、諸行無常の世界の中にあるわけです。おっしゃる通り、大河の一滴としての私たちであり、細胞1個と等しく諸法無我であるわけです。なるほど分かりやすい。

諸行無常の世界にあって、諸法無我としての川の中の一滴の水のごとく生きる私たちは、その事を認める事で、とてもすっきりと清々しく生きていけるというものです。そして、容易に煩悩にまみれ、苦しみにまみれるのも私たち人間であって、そして、その事を気付いたときにまた大河の一滴である気持ちを取り戻すのもまた人間らしい生き方と感じるわけです。

私はそれでいいと思いますし、苦しみを抱え、煩悩を滅しようとして、諸法無我としての水や細胞のごとく諸行無常の世界を生きていこうと思います。