確かに、感情は自分だけのものであり、自分が存在している事を感じさせてくれるものです。自分だけの感情であり、自分だけしか感じられない感情です。
その感情は他の誰にも感じてもらうことのできない自分だけのものであり、その事が自分は自分だけであり、他の人とは違って、他の人とは隔たりのある、独りの人間である事を感じさせます。
つらさや傷み、悲しみの感情も自分だけの感情であり、言葉でいかに説明しようとも説明し尽くせない、自分だけしか分からない感情であるわけです。
とは言え、感情の体験という事でしか分からないわけで、自分自身も言語化できないわけで、つまり、分からないわけです。感じるだけという事です。
他の人につながりを求めても、その感情を分け与える事はできないし、その事は、自分自身はいかようにも自分自身に閉じ込められている事を示しているわけです。
この自分だけの感情を、常に感じながら、感情とともに生きる。自分だけの感情とともに生きるわけです。その感情で苦しみ、傷み、悲しみ、その感情とともにべったりと生きるわけです。
ですが、べったりと張り付いた、まるで自分の断片である自分の感情をまとって、人は感情とともに生きているものの、その感情を自分自身で知ろうとする事も出来ます。
完全に、言語化できないとしても、可能な範囲で、その感情を解読できるわけです。
自分の感情をまずは感じ、そして、その感情の言語化を試み、それを解読しようとして、少しでも自分の言葉が自分の感情を探り当てたと思えた時、確かに、手応えはあって、少しわかった気がするわけです。
自分だけの感情を、自分の言葉が上手く捕らえたならば、まるで共鳴するかのように、感情の輪郭を知ったような感じがあるわけです。何か心は反応し、動くわけです。
あるいは、自分だけの感情の形に合わせて、言葉を適合させる事ができたならば、鍵と鍵穴のように、言葉が感情を開いて、動かす事が出来るわけです。
そのようにして、自分の感情に向き合い、解読し、解明する事が出来るわけです。
そのようにして、べったりと自分と一体化した感情の断片は、少しずつはぎ取る事も出来るわけです。
感情は自分だけのものであり、まるで自分自身のように自分のそばにあり、自分でべったりとまとわりついているわけで、その事が、自分自身が存在している事を確かにするわけですが、その感情に寄り添い、向き合いつつも、感情を自らの言葉で探り当て、その断片をはぎ取る事も出来るわけです。