毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

自分の感情から自由になる。

生きてきて、色んな事を見て吸収して、学び、適応して、そして、適応できる中で上手く生きていけるようになって、でも、日々にストレスを感じたり、消耗したり、限界を感じたりするわけです。

 

生きていかないと思うわけですから、生きていけるように自分を周りに適応させてその場その場で何かを身につけて生きてきたわけですが、そうしているうちに、何もかもが嫌になるわけです。

 

働いている職場も変えたいし、会社も辞めたいし、住んでいる場所も地域も家も変えたいし、自分から見える景色も変えたいわけですが、つまり、何もかも変えたい、と思うようになるわけです。

 

周りを認識しているのは自分自身であり、それを感じているのも自分自身であり、つまりそれは、自分の感情が、周りの景色を嫌がっているわけで、そのように感じる自分の感情を変えたいわけで、その感情から解放されたいわけです。

 

実は、内側から自分の感情で自分が火傷しているようなもので、その感情から逃げたくて、辞めたいというより、その感情を捨てたいわけです。その感情を滅したいわけです。

 

自分の感情は自分自身だけが感じているものであり、他の誰でもありません。いかようにしても、原理的に、自分以外の何者も自分の感情を感じる事はできません。

 

自分自身の存在は、自分の感情こそが確かにしているわけです。自分が今感じているその感情こそが自分が存在している事を事実としているわけです。感情こそが自分なんです。

 

自分自身とは何者か、自分のアイデンティティとはどのようなものか、それを彩っているのは、自分の感情であり、それを形作っているのは、自分の感情であるわけです。

 

自分の感情を手掛かりに自分自身は何者か感じられるし、アイデンティティも感情を辿る事でその輪郭や、あるいは、細部を確かめられるわけです。

 

周囲を変えたい、辞めたい、というのは、そのように感じる自分の感情から解放されたい、自由になりたい、そして、自分の感情を捨てたいという事であって、つまり、自分から解放されたくて、自由になりたくて、自分を捨てたい、ということであるわけです。

 

過剰適応してきて形成させてきた自分が、自分の感情である自分自身を形作り、そして、自分自身から自由になりたいわけです。

 

自分を取り囲む環境や人間関係を含む周りの状況は、もはや関係ないんです。

 

解放されたい、自由になりたいと願いのは自分の感情からであり、自分自身からであり、自分こそが原因であるという事です。