日々やっている事の中に、自分自身の生きる意味、生きる目的はある。そう思います。
生きる意味なんてものが、根拠なくあるという事はなくて、毎日の習慣の中で少しずつ育っているものとしてあるわけです。
なんだかんだと、毎日のようにやっている事、大事にしている事の中にあるわけです。
生きる意味は、意識的に分からなくても、心はきっと感じてとっています。だから、自分にとっての生きる意味がよく分からない時は、心に聞いてみるんです。
最初は、それ自身を生きる為にやっていたとしても、それが習慣になっていたら、それをやる為に生きている、そのように目的化している可能性があります、
生きる為にやっている事が、むしろ、自ら能動的にやるようになって、今となってはそれをやるために生きている、そういう事です。
何かを食べる事も、生きる為に食べている行為が、食べる為に生きるという、目的化が起こるわけです。
書くという行為も、書き続けていると、自ら書くようになり、書くという事に意味を感じ、書くために生きるという事に転じるわけです。
考える事も、生きる為に必要で思考していたのが、知らず知らずのうちに、考える事の為に生きている、そのように目的化するわけです。
人間、何事も、何気なく、生きる為にやっている事、必要だからやっている事が、継続とともに習慣化して、気が付いたら、それ自身が、目的になって、その事の為に生きるようになるわけです。
人間とは、そのような能動的な生き物だという事です。
食べる行為も、栄養摂取の為、つまり、生きる為から、その意味を超えて、食の楽しみに変化させていくわけです。学習による行動変容です。
食べる事も書く事も考える事も、全部生きる為に必要だったものが、自ら能動的な行為に変化させ、意味を与え、もはやその為に生きるようになるわけです。
日々やっている事は、心が必ず反応します。行為と感情が合わさって、新しい意味を与えます。つまり、習慣と心が、意味や目的を育てていくという事です。
心がある限り、意味は生成されます。習慣としての継続的な行為が、かけがえのない大事な事として意味を生成するわけです。
ですから、自分にとっての生きる意味、生きる目的を考える時、自分がいつもやっている事を振り返ってみる事です。きっとそれらは欠かせない大事な習慣で、大切な行為になっています。
知らず知らずのうちに、日々の事に意味を与えています。自分の心に基づいた能動性が目的を生成しています。