人の生きる意味というのは、結局、毎日の中で育っているものだと思います。毎日の習慣が、結果的に、生きる意味を作り出していると思います。
そもそも、言ってしまえば、生きる意味というのは、生きているという事そのものであって、生きている事で十分意味は与えられているわけです。
ですが、実質的には、ただ生きているというだけでは人間生きる意味を感じるには強度として足りないわけで、もう少しはっきりとした意味が欲しいわけです。
とは言え、基本は日々の中で生きる意味は自ずと育まれているはずで、それ以外ではないわけです。
日常の中に十分生きる意味は実際に見つけられるはずで、あらゆる行為は意味が備わっているはずです。
自分の日常には、もしくは、自分の生活や環境には、自分にとっての意味があふれているはずで、単に自分がそれらを大事にしていないだけだったりします。自分の周りにある意味をただ気付いていないという事です。
自分のあらゆる行為に意味を感じないとすれば、それは、意識がそれらに向いてないわけで、大事にしていないわけです。
日々の習慣として自然とやっている事に生きる意味は十分に備わっていて、それらは少しずつ育っていくものです。
日々習慣として育てているものを意味あるものとして育てていっていないとすれば、それは勿体ない事で、意味はそのようなものの中にしか育っていかないわけです。
少なくとも、生きる意味は、自分から離れた遠くから引っ張ってくるものではありません。自分に何の関わりの無いところに、生きる意味なんてありません。
生きる意味はいつも自分のそばにあります。生き物のように、いつも自分の近くにいます。
だから、それらをちゃんと大切にする事です。心は、それらに意味が備わっている事をちゃんと感じています。心は、生きる意味をちゃんと知っています。ただ、自分がその事に気が付いていないだけです。
だから、自分の生活を成り立たせている毎日の習慣を大切にするべきです。毎日の習慣を見直してみるべきです。確かに、生きる意味は、それらの中に育っています。それらの習慣によって育っています。ただ、それをちゃんと認識するべき、という事です。
日々何かしている事、人と話をしたり、考えたり、見たり、作ったり、ありとあらゆる行為の中に、生きる意味は育っています。あらゆる習慣の中に生きる意味は育っています。それらを見逃してはいけません。よく見て、気付いて、育てていくんです。