毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

ジャーナリングによる没頭は創造性につながる

ジャーナリングは、自由気ままな行為であり、思った事をただ言葉として書きつづっていく行為です。

そこに、何か明確な意図はなく、また、すでに頭の中で整理されている言葉の羅列を書き写していく作業でもなく、ジャーナリングとは、言うと即興的な作業であり、特に事前の準備は要らないわけです。

書く為の材料は、あるいは、資源は、すでに頭の中にあって、言葉として顕在化されていなくても、潜在的な眠っているものが、ジャーナリングのプロセスの中で自然と言葉として現れていくわけです。

その意味では、確かに、自然と現れたひとつひとつの言葉を、その場その場で書き写していく行為とは言えます。

ジャーナリングは、自然と頭の中のものを言葉として吐き出していく行為であり、それは同時に頭の中を解放していく行為でもあります。その意味で、頭を楽にしてくれるわけです。

そして、解放してくれるともに、快適さをもたらせてくれます。

そのような快適な時間、快適な空間の中で、人は言葉を次から次へと吐き出していく事に集中するわけで、気が付いたら没頭しているわけです。

没頭する事で、快適さや心地良さだけでなく、充実や喜びも感じながら、何かしら吐き出される言葉とともに、自分の中から新たな気づきを得るわけです。

新しい気づきや新しい発見は、自分自身の確かな変化の兆しであり、新しいものを生み出す創造の源泉であるわけです。

新しいものを生み出す源は、実際には、自分の中に事前に資源としてあるわけですが、それが顕在化していないためにそのままでは現れてこないわけで、その意味で、ジャーナリングという行為は、それを顕在化させるわけです。

ジャーナリングがそれ自体で、結果的に、創造的な行為と言えるわけです。書く行為、書く習慣、その洗練が、より高度に、創造性を発揮させるわけで、それを可能にするのは、確かに、日々のジャーナリングの習慣ではあるわけです。

確かに、創造されるものは、事前には予期されないかもしれません。事前に準備出来る事はその意味で、ジャーナリングであったり、ジャーナリングの習慣であったりしますが、確かに、その習慣が、創造性につながるわけです。

ですから、ジャーナリングは、何気に自分自身の解放感や快適さを求めて為される行為でもあるわけですが、その行為が、集中やその先の没頭につながり、その結果、新しい気づきや発見を自分の中から生み出し、そして、それが新しい創造につながるわけです。

つまり、ジャーナリングによる没頭は、創造性につながるという事です。