毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

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人はどのように自由を獲得してきたかについて考える。個人の自由の時代。

人間は、どのようにして自由を獲得してきたかという事について、これまで、神や国家、経済によって自由が獲得されてきたというお話をしてきました。今回は、現代につながる自由という事で、個人としての人間の自由に関して、神、国家、経済に関する自由と、個人の内面性に関する主観的世界における自由、について考えてみようと思います。

 

まず、神に関してです。人間は、未知で恐怖の自然の中で、神を創造してそれを支えにして生きてきました。ですが、歴史とともに、国家や経済が、ひとりひとりの人間に対して、一定の自由を確保できるようになってきたため、人間が神によって支えられるという事が必然ではない時代にもなってきました。言い方を変えると、国家や経済などの仕組みや創造は、歴史の中で人間の自由の活動によるものとも言え、人間は神がいなくても一定の自由を確保できるようになってきたという事です。

 

そして、国家の発展によって、ひとりひとりの人間の一定の自由が守られるようになり、今の価値観では、ひとりひとりの人間が尊重される時代になったと言えます。個人の自由や尊重は、地球全体に共通した価値観になっていると思います。

 

また、経済の発展によって、ひとりひとりが経済的自立という自由を確保できるようにもなりました。人間の自由の活動に基づいた経済の方法を使えば実質的には、ひとりの人間として生きていく事が可能です。

 

このようにして、現代では、神からの自由とともに、国家や経済の発展によって、個人の人間として一定の自由を確保して生きていけるようになったと思います。ですが、一方で問題は残されていて、自分たちの内面性を支えていた神の実効性が低下した現代、内面を自分たち個人で支えないといけなくなったという事です。精神的支柱というか、拠り所のようなものは、国家や経済では支えられません。

 

国家のナショナリズムの精神は、「自分はこの国の国民である」という内面性の拠り所に出来る側面はありますが、そのような時代も歴史的には随分前の話になってしまい、現代ではその有効性に支えられる時代ではなくなりました。

 

また、科学の進歩によって、人間の身体や脳の性質や仕組みがかなり明らかになってきて、主観的な世界が人間の内面性にある事が重要視されるようになってきました。その意味で、現代では、個人個人の持つ内面としての主観的な世界をどう生きるかが重要になってきています。科学は、これからももっと進歩していくと考えられ、より人間の身体や脳の科学が進む事によって個人の自由に関しても発展していくと思います。また、仏教的な世界では、常に移り変わる世界の中でいかに自分を保っていくかと捉えられていて、個人の人間としての内面性を支える仕組みとしては現代に合っているように思います。

 

一方、現代はインターネットなどのメディアを活用した個人の主観的世界に関与する仕組みはあるものの、むしろそれらによる影響に人間は圧倒されて、内面性を支えるどころか内面を安定にするのが難しい状況にもなっています。その意味で、現代は、科学技術の発展によって個人レベルでの多くの自由を獲得できるようになったものの、それらに翻弄されて生きる事が難しい時代にも入ってきたようにも思えます。

 

今回は、人間がどのように自由を獲得してきたかについて、現代まで獲得してきた一定の自由と、現代の自由とについてのお話しでした。神の時代から、国家や経済の発展を経て、個人の一定の自由を獲得できるようになってきたものの、神の不在により内面を自分で支えなくてはならなくなった事や、自分たち人間が生み出してきたものに逆に翻弄されて自分を安定させて保つことが難しい時代に入ってきたという意味で、個人の自由は生易しいものではなく、仏教的世界観も含め、いかに個人の人間として生きていくかが重要になってきたように思います。同時に、科学はこれから先も進歩していく事が予見されることから、個人の自由を獲得する事に関して、より科学の重要性が増していくようにも思います。