毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

ブログという場所が哲学を生み出す場所になる理由

歴史を振り返ると、ソクラテスプラトンアリストテレスから、現代に至るまで数多くの偉大な哲学者がいて、人類の歴史に大きく影響を与えてきました。昔の哲学者は科学者も含んでいましたが、歴史とともに学問が細分化されてきました。特に近代に入ってきて、科学の役割が明確になってきて、科学が産業や技術と結びつく事で18世紀以降大きく世界を巻き込みながら、資本主義社会が発展してきました。

特に、20世紀に入って以降、科学技術が世界をけん引してきたとともに、政治的なイデオロギーの力や哲学や思想の影響が小さくなってきたため、もはや哲学の役割は終わったのではないかという議論もなされるようになってきました。もちろん、世界の哲学者たちの役割は依然としてあって、知識人や賢人として政治に影響を与えることは今でもありますし、多くの人は哲学者の考えを参考にして生きています。ただし、コンピュータやインターネットがこれほどまでに発展し、情報やデータがものをいう時代になって、哲学や思想による説得力より情報やデータの説得力の方が勝っているという時代にもなってきているのも事実です。

今は資本主義社会が中心ですから、世界は強く経済システムに依存していますし、市場の規模や産業の発展が本当に極めて重要になっています。そして、そのような経済や市場に対しては、情報やデータの力は大きく、テクノロジーもアナログからデジタルへどんどん転換してきて、データとの結びつきも強固なものになってきています。今や、経済の発展を抜きにして、世界や社会について語れなくなってきています。

 

そういう21世紀の背景の中で、とは言いながら、意外と哲学は人気があって、この混とんとした先の見えない世界の中で、何が正しいのか、どう生きればいいのか、ますます人生の道しるべ、世界の方向性、を知りたい、参考にしたい、という人々のニーズは高まってきています。哲学は、そもそも人間と深くかかわっていて、実はいつだって重要なのです。そのような状況にあって、私はブログという場所が、これから哲学が生み出される場所になっていくと思っています。確信している、に近いかもしれません。

 

それは、まず哲学とは何かという事から言えるでしょう。哲学とは、人間の思考に関する方法のひとつで、言葉を用いて表現されるものです。もちろん、哲学は、言葉以外のものを使っても原理的には可能ですが、実質的には言語を使う事がとても効率的です。人間の論理的思考自体が脳の仕組みに組み込まれていて、その脳の仕組みに基づいて思考が言葉とともに展開されていきます。人間は胎児から成長していく過程で言葉を学び、そして、言葉を身につけるとともに思考することを学びます。ですから、言葉と思考は鶏が先か卵が先かではないですが、両方が組み合わさって紡ぎだされていきます。再度断っておきますが、哲学は別に言葉を使用することが前提ではなく、芸術的表現も哲学することに何ら変わりはありません。その中でも、特に言葉は、哲学することにおいて強力な方法です。

ブログは、人々が個人の思考を自由に言葉によって表現することが出来る場所です。哲学は基本的に誰でもできます。それは何故だろうと考えはじめて、自分なりの考えを突き詰めていけば練り上げられたその思考の内容が立派な哲学的論考になりうる可能性があります。そして、ブログは誰でも書けます。すべての個人の思考の過程がブログに記されます。ですから、その記された人々の思考が哲学として大いに役に立つのです。

 

インターネット上で、ブログは多くの人に共有することを可能にします。本来大学とは、自由な学問する場所でもありました。現代は、良い成績をとった者しか大学には入学できないし、大学で学問するには高い授業料を払わないといけません。さらに、哲学者になるには大学で働いて教授という職業につかなければなりません。基本的に、哲学とは哲学の専門性を身につけた大学の教授だけの仕事になっていて、大学の哲学者の特権のようになっています。しかし、そのような教授という社会的肩書や地位がなければ哲学者にはなれず、哲学の価値はないというのは本質的な事ではありません。ただし、哲学の話を誰に聞くべきかといったときに、誰が信用できる実のある哲学の話をできるのかは分かりませんから、有名な大学の名前に頼って、それを信頼して大学の哲学者の言う事を参考にするという事が、哲学の話を聞く最も実質的な近道になると思います。信頼性の問題です。

ですが、哲学が人々によって紡がれて発展するという歴史を考えたとき、インターネット上で共有されるブログは自由な哲学の場所、学問の場所としてうってつけです。もちろん哲学として役に立たないブログが量産されることもあるでしょう。それでも、人々の自由な思考の展開がブログ上でなされ、拡散していく、普通の人々のボトムアップ的な哲学の思考の発展は、哲学者によるトップダウン的な哲学の広がりとは全く異なって、20世紀以前には全く起こりえなかった、歴史的にも重要な哲学の拡張の時代に入っていくように思います。また、今は翻訳など言語的壁の問題が昔より格段に低くなっていますから、インターネットは世界の人々に個々人の哲学を容易に共有できるものにしていくでしょう。

 

そして、インターネットは、経済的観点から、情報、データという意味で、個人個人が自由に書き記したブログを共有される資源にし、その資源を市場としては取り扱う事がを可能にします。新しい資源は常に市場では求められています。ビジネスとは、無価値な資源を価値ある商品に置換する作業です。現在、グローバルに発展したビジネスはいつでも無価値を価値あるものに変換します。資源を商品に変換します。ですから、ブログは人々の自由な執筆活動の記録ですが、この資源が、資本主義経済に基づくグローバルなインターネットによって、価値にもしくは商品に変換される可能性が常にあるのです。ビジネスにおいては、新たな資源こそがビッグチャンスですから、新しい哲学という資源は、21世紀のグローバルに広がった混沌として世界の人々にとっては、極めて価値の高い資源になるでしょう。ですから、このグローバルな市場経済システムによって、ブログに書き記された哲学は発展可能性が高いのです。人々は今、本当に、生きていくために、哲学を求めています。哲学の発展も期待されています。ブログはその事を可能にしてくれるのです。

 

哲学は人々の脳の仕組みに基づく営みです。思考と言葉から紡ぎだれた人間の自然の営みで、常にいつの時代も必要とされています。その時代にはその時代の哲学が、21世紀には21世紀の哲学が、常に求められています。

そして、哲学は人間の自由な思考の展開です。大学などの特権階級の権威や地位から限られた空間からのみ生み出されるものではないのです。哲学は、かつての自由を求めた大学の意味合いから生まれるものなのです。それは、自由な場所であるブログが門戸を広げます。

さらにインターネットが市場の力と合わさって、人々の自由な哲学を支援します。多くの人に読まれ共有され、哲学は人々の間で練り上げられて、歴史的にこれまでにない発展が起こります。そのような意味で、これから、ブログは、新しい哲学が生み出される場所になるでしょう。