毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

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質の良い会話とは二人の共同作業による創造である

人はみな他人とコミュニケーションをとっていると思いますが、人と話していて楽しい会話もあれば、つまらない会話もあると思います。さらに言えば、話をしていても苦痛しかないという事もあると思います。おそらく、会話には質の良い会話というものもあれば、質の悪い会話というものもあるのではないかと思います。では、一体どのような会話が質が良くて、どのような会話が質が悪いのでしょうか。

 

会話の話をする前に、人間というのはどういう生き物かという事について話したいと思います。ユクスキュルの環世界の概念を知っているでしょうか。人間は含め、すべての生き物は感覚器官をもっていて、感覚を通して世界と接しています。世界の情報を感覚を通して認識して、そしてはじめて生き物は世界を知ります。生き物によって感覚器官は違いますから、種ごとに世界は異なっているという事になります。人間は、人間特有の世界を五感によって感じ取って形作っています。なので、人間も他の生物と同様に、世界と直接接しているわけではなくて、フィルターを通して世界と間接的に接しているわけです。映画館のスクリーンの映画を見るように世界を見ているわけです。そして、その世界は、個人個人で違います。みんな、自分特有のスクリーンを持っていて、自分だけの映画を創り上げているわけです。私たちはこのような環世界を認識しているわけです。

その意味では、人は内的な世界を生きているとも言えます。自分の内的な世界の中に、たくさんの登場人物が出てきます。そして、その登場人物たちと、内的な世界で会話をしているわけです。このような観点で考えると、人は非常に自閉的に思えてきます。事実、人は多少自閉的です。

 

では、その意味で、自閉的な人間が他人と話をするとはどういう事でしょうか。それは、自分の世界のスクリーンに登場する登場人物たちに話しかけるという事です。自分にとってエンタメの登場人物のような感じです。登場人物が自分にとって心地よく話をしてくれるととても楽しい会話ができたと満足します。とても、自閉的な会話であるように感じますよね。相手が自分にとってとても快適な会話の相手になってくれれば心地よいですが、そうでなければ不快です。

 

では、同様に、自閉的な相手に対して話を聞くというとはどういう事でしょうか。相手は内的な世界を持っていて、そのスクリーンに向かって自分に話しているわけですから、相手の映画のスクリーンの中の自分は、登場人物として話を聞いてあげなければいけません。それはとても骨の折れる作業だと思います。相手のスクリーンの中の登場人物を演じるような感じです。相手に凄く合わせないといけないですから、とてもきつく感じます。

 

今の話の例から、人が自閉的であると仮定した場合、自分の内的な世界に相手が合わせてもらうか、相手の内的な世界に自分が合わせるか、というコミュニケーションスタイルになります。まるで、親に向かって話す子供のようです。子供の話を聞いてあげる親のようです。親は子供の話を聞いてあげないといけません。そのような関係です。このような会話は質の悪い会話だと言えます。

 

では、質の良い会話とはどのようなものなのでしょうか。もし、自分が相手の事に関心があって相手と話をしたいとき、自閉的な世界でありながらも、その自閉的な世界から相手に向かって外に出ようとして話しかけます。ユクスキュルの環世界しか持たない人間にとって、そのフィルターの向こう側の世界に行く事はとても難しいことです。ですが、相手に関心がありますから、より近づこうとします。自閉的な自分が、新たな相手に向かって一歩外へ出ようとする行為は、新たな世界を創ろうとする行為です。質の良い会話というのは、新しい世界を創造しようとすることです。実際、お互いに関心を持って話をするとき、自分の内的な世界でもない、相手の内的な世界でもない、お互いで協力して創る新しい場での会話となり、それはとても心地よい会話になっているはずです。

 

そのような意味で、人は基本的に自閉的ですから、相手に関心を持たない時、会話は自分の内的世界に相手を引き込む会話になります。同じように、相手が自分に関心がないとき、相手の内的世界に自分が合わせる会話になります。それはお互いに不快でつまらない会話です。質の良い会話とは、自分の内的な世界でもない、相手の内的な世界でもない、お互い共同で創る新しい世界でなされる会話です。つまり、会話とは、二人の共同作業による創造であるべきだと思います。このような創造性ある会話が実現できれば、とても心地よい実のある会話になっているはずです。