毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

どんな時でも自分で自分を肯定していい理由

人間生きていると、何か辛いことがあったり、辛いことを抱えていたり、そして、辛いことを思い出したりして、自己卑下に陥ったり、絶望したりしますよね。そういう時って本当につらくて苦しいと思います。でも、基本的に、人は、どんな時でも自分で自分を肯定してよいと思います。その理由について、考えてみたいと思います。

 

まず、この事を考えるにあたり、肯定するとはどういう事かについて考えてみましょう。「肯定する」の反対語は、「否定する」です。自己肯定と自己否定は、対になっています。肯定は良くて正しく、否定は悪くて間違っているという関係です。肯定は認められる事で、否定は認められない事です。つまり、肯定するとは、肯定するその対象はそのままで良くて正しくてそのままで認められる状態で、否定するとは逆にそのままでは悪くて間違っていて認められない状態です。人を肯定するといった場合は、その人は、そのままで良くて、正しくて、認められる人の事を指します。肯定するとはそのような意味になります。

 

では、何故自分は自分を肯定してよいのでしょうか。それは、自分は自分を認識するときに、自分はそのままで良いと思っているし、そのままで正しいと思っているし、そのままで認められると思っているからです。逆に言うと、自分を自分で否定する場合は、自分はそのままでは悪くて、間違っていて、そして、認められないからという事になりますが、実際どうでしょうか。この事について自分に問いかけてみてください。自分は悪いでしょうか。そして、間違っているのでしょうか。そして、認められないのでしょうか。きっとそうはならないはずです。自分は自分の事をよくわかっていて、自分の陥っている事情をよく理解し把握しています。そんな自分が否定される状態にあるでしょうか。きっとないはずです。ですから、自分は自分を肯定してよいのです。

 

自己肯定とか、自己否定というのは、自分の内面の問題です。実際には、他人や社会との相対的な比較の中で、他人が秀でているとか、自分が劣っているとか、そういう相対的関係によって、肯定感や否定感が出てきます。そして、この場合、自分で自分を否定してしまっていると思います。それは自分自身が自分に対してジャッジしている状況です。自分の内面で起こっている事です。自分で無意識に自分を貶めて、自分だけの世界で自ら自分を否定しているのです。ですが、繰り返しですが、自分は否定される状態にあるのでしょうか。そう問いかけるとそんなことはない事に気付くと思います。自分は自分の事情があってそのような状態に陥っているだけですから、自分が否定されることはないのです。

 

では、具体的にはどのくらい自分を肯定してよいでしょうか。宗教のような言い方ですが、基本的に人間として否定される存在の人などいません。すべての人間はその存在を肯定されています。だから、原理的には、絶対的に肯定してよいという事になります。ですが、自己肯定や自己否定は、自分の内面の世界での話です。自分が自分の中でどう自分を認識するかの話です。他人との相対比較から決めるものではありません。だから、自分を肯定する条件は、他の特定の誰かより肯定されるべきとか、他の誰よりも最も肯定されるべきとか、他人の中で肯定されるものではありません。自分という範囲の中で、他人との比較は関係なく、肯定すればよいのです。

 

何かで人より劣っていて、自分の方が能力が低かったとか、自分より他人の方が良い成果を出したとか、そういう優劣の場合、そこには、自分の方が上とか、他人の方が上とか、そういう話が出てきます。ですが、自分自身が否定されることはありません。実際ここで問題になるのは自分の内面の事で、自分で自分を否定している事こそが問題なのです。実際何らかの成績や成果の評価で、自分が優れているとか、他人の方が優れているとか、そういうことはありますが、そのような評価における肯定、否定そのものは、きっと自分自身を傷つける事にはなりません。その事を通じて、自分自身こそが自分を否定しているのです。自己否定の辛さ、苦しさは、基本的に自分でそう仕向けて感じているわけです。

 

自己否定に陥って辛くて苦しいとき、これは自分自身の内面の話なんだと認識して、そして、自分で自分を自己肯定してやってください。自分を突き放したりせず、ないがしろにせず、自分を大事にして、肯定してあげていいと思います。