人は何のために生きるのか。この事の答えを求めています。自分なりに、自分の生きる意味を知りたいわけです。持っていたいわけです。
そもそも、人間は生まれた最初から生きる意味というものを持っていないわけです。少なくとも自分自身が最初から生きる意味を持っていないわけで、自分以外の何者かに明確に生きる意味を与えられない限り、無いわけです。それでも、それを自分が認識して、それを生きる意味として納得できなければ、自分自身にとって生きる意味にはならないわけです。
つまり、自分の生きる意味はない、というところから人生は始まるわけです。ですから、生きる意味を生きている間に必死に手繰り寄せる、人生とはそんな感じになるわけです。
自分自身がこの世界に存在しているのか、これを確かにしたいわけです。この感覚を自ら見出すのは困難で、自分以外の誰かに確かにしてもらうという事を人は求めてしまうわけです。
ですから、人は他の人から認められ、存在を確かにしてもらい、しっかり関わってもらう事を求めてしまうわけです。それは、自分自身で自分の存在を確かなものとして感じられないからです。
これは、人間としてしょうがない事です。自分の存在を確かなものとして感じたいがゆえに、どうしても、人から認められたいし、人にしっかり相手にしてもらいたいし、大切にされたいわけです。
そういった、自分自身の存在の確かが足りなくなると、自己肯定感を求めるわけです。自分では肯定感を調達できなくなるので、どこかから自分の肯定感を確かにしてもらいたいわけです。
自己効力感も同じです。自分自身の存在の確かさが弱くなると、自己効力感が足りなくなって、どこかから調達しないといけなくなるわけです。
自分の生きる意味は、自分の存在の確かさと関係しています。自分がこの世界に存在する事を確かだと感じられていれば、それは、ある意味で、生きる意味をすでに見出しているのであって、言い方を変えれば、自分の生きる意味を感じられる方向に向かって、人は生きていくのです。
その意味で、自分の存在の不確かさによって、人は何のために生きるか、つまり、自分の生きる意味を追い求めているのです。
ですから、生きる意味は初めから無いし、でも、ある意味、生きていく為に、生きる意味を求めるのです。自分の存在の確かさの為に、自分の生きる意味に向かって人はその方向に生きていくのです。
生きる意味がそもそも無いからこそ、生きる意味を求めるのです。