この世界をどのように捉えるのか。理解するのか。それは自分次第です。
自分がこの世界の何を見て、何を感じるのか。また、どのように見て、どのように感じるのか。
この世界を完全に理解することはできません。あくまで、自分の見ている視点で、自分がどのようにそれを解釈するか、また、どのように構築するか、そのようでしか、世界は捉えられないんです。
言葉を駆使して、この世界を記述することはできます。言葉を使って描いて見せることはできます。ですが、それはあくまで自分の言葉であり、自分の記述であって、それはあくまで主観的なものです。
言葉で記述しきれない理解もあります。この世界を言葉では語り尽くせないということです。言葉の性質上、どうしても、全ての表現することはできませんから、部分的に切り取りながら限定して世界を描くことになり、言葉では世界の説明は不足してしまうわけです。
ですから、言葉以外の方法で、この世界を理解しようとするアプローチも必要です。
人間には、言葉以外にも様々な表現方法があり、音楽であったり、絵であったり、物語であったり、ありとあらゆる方法があります。
あらゆる手段を使って、この世界を捉えることはできますが、それでも完全には描き切れないかもしれません。
科学も、世界を明らかにし、切り取る方法として有用であり、謙虚でありつつも、実行力があります。部分的ではあっても、観察と解釈を通して、世界を少しずつ明らかにしていくのです。
ですが、それでも、完全にこの世界を理解することはできません。科学的な方法をもってしても、常に世界に対する理解は断片的であり、ある側面のみです。
それでも、人はこの世界を、自分なりに把握しようとします。他の人と、この世界に対する理解や説明が異なっても、それでも、自分なりにこの世界を把握し、解釈するのです。
そこに、正解はありません。無限の解釈がこの世界に対してはあって、どれも不確かで、どれも間違っているとは言い切れません。
この世界はどうしても捉えきれないものであり、でも、そのようにして自分なりに解釈した世界を頼りに、人は生きていくんです。
不確かな世界かもしれないけど、それを頼りにするしか生きる術がないから、その不確かな世界の中を人は生きていくんです。
人は基本的に、不確かな世界を生きているんです。常に不確実で、常に曖昧で、自分なりの、主観的な世界しか目の前にはなく、それでも、人はこの世界を生きていくんです。