毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

主観的世界を生きる人間としていかに関わっていくか。社会、人、対象。

人は、世の中や人々とどのように関わっていくのが良いのだろうか。このような疑問を持ってしまうのは、人間という生き物が、目の前に広がっている現実を、主観的な世界として想像する事しかできないからです。

 

人は、物理的に、目の前にある対象を目で見て、手で触って、どういうものかという事を理解して把握しようとします。ですが、正確に理解する事は不可能です。せいぜい、人間の感覚器官を通して人間の方法で把握し解釈する事が出来る程度です。それは、周りの人に対してもそうで、その人がどのような人か、見て、話をして、自分なりに理解し、把握して、知る事が出来ます。でも、それらは、正確ではなく、あくまで主観です。

 

そういうのは、人間の認知能力という形で説明されます。人間の認知の仕方によってその対象を主観的に理解しているわけで、そのように取り扱うと、ある程度目の前の対象や人に対して、取り扱えるようになるからです。それは、他の動物も同じです。

 

また、他の人も同じように対象や人を主観的に認知し理解していますが、その方法は人によって様々です。全く同じものを対象にしても、人によって全然違う認知をしているはずです。それは、人間の認知の多様性とも言え、その意味で人それぞれの認知の世界は多様なわけですが、それでも、あくまで、現実は人それぞれの主観的な世界であり、異なるという事です。

 

特に現代はメディアが発達して、インターネットの情報が溢れています。自分の目でその対象を見なくても、また、触らなくても、認知して把握する事が出来ます。あくまで、主観的にですが。

 

ですが、どのような情報に触れるのか、どのようにその情報を取り扱うのか、認知するのかは人それぞれで、それによって、人それぞれ想像している世界は、全く違うものです。だから、人の見ている世界、想像している世界は、人によって全く違うもので、共有していると思っている現実は、実は共有出来てはおらず、人それぞれの主観的な世界をすり合わせるだけです。

 

そのような、主観的な世界を想像して生きる事しかできない人間が、どのように世界に接し、人に接し、対象に接すればいいんだろうかと考えてしまいます。

 

ある意味社会は、暗い中を、人々が目をつぶったまま手探りで手を握り合おうとしているようなものです。とは言え、それでも人は人々や世界とともに生きていこうとしなければ生きていけない生き物です。そこに人間としての豊かさや喜びはあります。

 

どう関わっていくか。その答えは分かりませんが、自分の観ている主観的世界である現実は、人であれ社会であれ何かの対象であれ、それにどう触れ、どう感じ、どう皆と共有していくか、主観的にですが、認識して自分になり答えを求めながら関わっていくしかないのだろうと思います。