毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

知と想像と構築の欲求。

人には、知りたい、という欲求があります。人は、「なんでだろう…。」といろんな事に疑問を抱くわけですが、何かそれを知りたいわけです。

疑問に感じた事は、何でも知りたくなる。そういう性質が人にはあるわけですが、それを欲求と言えば欲求とも言えるわけで、言い方を変えると、分からない、という状態が嫌、という事でもあります。

分からない状態、不明な状態、というのは、未知な状態であり、不安につながります。ですから、その不安を払拭したい、回避したい、そういう感情が、知りたい、という欲求につながるわけです。

とは言え、不安感を感じずとも、単に知りたいと感じる事はよくある事で、つまり、それが知的好奇心につながるという事でもあります。

知りたいという欲求があると、たいてい、哲学も好きで、勉強も好きで、考える事も好きという事になります。

基本的に、何でも知りたいし、世界も知りたいし、人間も知りたいし、自分も知りたい、というようになるわけです。

また、歴史が好きというのも、知りたいという欲求から来るわけです。

ですが、歴史という史実をいくら知ったところで、古くなればなるほど正確に知る事は難しく、せいぜい史実を把握して、史実から解釈する、という事になるわけです。

とは言え、意外と、この「把握」、「解釈」も、「知りたい」に関連して、人に満足感を与えてくれるわけです。

歴史を知る事によって、その頃の暮らしや現代に至る経緯を把握、解釈し、それを通して、想像するわけです。想像する事も、知の延長線上にあるわけです。

人は、何か知った事を知ったという事に留めずに、そこから、想像して、自分なりに構築したいわけです。体系立てたいわけです。

構造主義が流行ったのも、歴史的な経緯はあるものの、人の知的好奇心というものがそもそもそこにあったわけです。

結局、何かを知ったところで、その中身を完全に理解する事は出来ません。科学的態度も、あくまで、事実から解釈をつけるという事であって、真実を明らかにする事は出来ないわけです。人間の認識には限界があるという事です。

ですが、現象学的還元という意味でも、人間の認識の範囲で、知った事を把握し、解釈し、自分なりに想像して構築できれば、それで人の欲求は満たされるわけです。

自分なりに、主観的に世界を想像し、世界を構築する。この事が、実際、この世界で生きていきやすくするし、生きていく事を可能にします。人はそのようにして、雲をつかむようでいながらも、その知と想像の雲の輪郭を頼りに、この世界を生きているわけです。