毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

本というものは、読む事を目的として読むものである。

本というものは、読むものである。これを間違ってはいけないと思います。本を手にしたとき、その本に対しての目的は、とにもかくにも、読むという事です。

 

目的と手段というものがありますが、この関係をどう考えるかが大事なわけです。ある目的があって、その目的の為に手段がある。例えばそのように考える事ができるわけですが、手段は、実際のそのプロセスに相当すると考えると、プロセス自体を扱うのは、ある目的の為という事になります。

 

ただ、目的というものを念頭に置いて、その目的の達成の為に手段としてのプロセスを行うという事になると、手段より目的の方が重要という事になります。より重要な事の為に、その事に取り組むというのは、取り組んでいる目の前の事が、直接的な事ではなくなってしまいます。あくまで、ある目的の為に、目の前の事を取り組むという事なわけで、目的が自分にとっての直接的な事だとすると、目の前の手段は間接的な事になります。

 

間接的な事には、人はいつまでも集中を持続させられません。人は、直接的な事に集中するべきです。そう考えると、目的と手段は一致しているべきです。

 

話を、「本を読む」という事に戻しますと、本を読むのは、目的そのものであって、何らかの目的の為であっていけない。そういう事です。

 

確かに、本を読む事で、何かを知る事が出来ます。学ぶことが出来ます。文字もたくさん覚えられるし、文章の読み方も作り方も分かるようになります。ですが、それらで得られる事は、あくまで本を読む事によってです。結果として、です。

 

つまり、何かを知るために、学ぶために、本を読むというのではなく、本を読むために本を読む。変なに表現ですが、そうあるべきです。

 

本を読むという事自体に集中する。字面を追いながら、その裏に何か重要なものが隠されているから、それを解読する為に読むのではありません。ただ、ひたすらにその本を読む。その文章、その字面を追うのです。それそのものの行為を目的として。

 

そして、その結果、その字面の裏に何か特別なものが隠されている事に気付いたり、何か感じるものがあったり、行間にすら見出すものがあったりするわけです。そして、何かを知り、学び、得るという事です。

 

あくまで、本は読む事が目的だという事です。何かの手段ではありません。手段ではなく、直接的に目的としてその本を読む事によって、結果的に多くを得るのです。本というのはそのように向かい合うべきであって、そのように向かい合う事ではじめて、それ以上の世界があるわけです。