毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

生きるとは、そこにあるものと「ともに進んでいく」という行為。それが生の営み。

生きていて、遠い未来とか、大きな意味とか希望とか、そういう事が必要なんじゃないかって囚われがちになりますが、そうではなくて、大事な事は、普通の日常の中にある、ただ身近にあるもの、目の前にある事、周りにいる人に、ひとつひとつ丁寧に、大事に扱っていく、向き合っていく、対話していく、そういう事じゃないかと思います。

 

自分たちの思考や理性は、そういう事の為に使うのであって、何か大きな意味を見出す事に使うのではないんだろうと思います。自分にとっての世界、身近な事、日常、目の前の事、そのような事の実践の中に、“生”があるんだろうと思うし、日常の細かい事のひとつひとつに自らダイブする、もしくは、一体となって、それに属する、そのような感じだと思います。

 

世界をどんどん拡張していこうとするような感じではなくて、ちょっとした、そこにある世界に、丁寧に、“対話する”感じで、自分たちはその時はじめて、理性や思考を使う。自分たち人間が頭を使って出来る事は、謙虚に、そのような事でしかないように思います。

 

自分たち人間のする「行為」とは、そのような、目の前にある事、身近な日常と、「ともにある」、「ともに何かをする」、そのようなものだと思います。

 

例えば、「本を読む」という事に関して、本の文字を読み進めるのも、ただ字面を読み進めるものではなく、その文字、その文章を通して、その文章の内容に一体となるように、文字とともに、そして、内容とともにあるように、進んでいく、それが「行為」というものではないだろうかと思います。

 

そのような、ともに進んでいく体験、そのプロセスが行為で、そして、そういう事が、そこにある目の前の世界との関わりであって、それこそが、生の営みなんじゃないだろうかと思います。

 

生きていくというのは、不安で、頼りないものです。人はそれでも生きていくわけで、それは周りに世界はあって、その世界と関りながら、ともに生きていく事なんだと思います。でも、その世界はだいそれたものではなく、本当にちょっとしたことで、見逃してしまいそうな日常の中の、そばにあるものだと思います。そのようなものに関わりながら、寄り添うようにして、よく観て、そして、一体となるようにして、属するように、包み込み包み込まれるようにして、ともに進んでいく、それが生きるという行為であり、生の営みなんだと思います。

 

だから、生きるという事に関して、頭でどうにかしようとするのではなく、むしろ頭は、ともに進んでいく事の中で謙虚にその思考や理性を使っていくものなんだと思います。