毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

好きな事、やりたい事が見つからない。意味や目的に囚われず、小さな事で良い。

好きな事、やりたい事をやる、見つける、という事が、案外難しいんじゃないかとよく思うんですけど、そういうのって、本当にちょっとした事でいいんだと思います。

 

好きな事がない、やりたい事がないと言って、いつも退屈感を感じたり暇を感じたりして、その事を避けるように、何かやる事を作ろうとしてしまう人っていると思いますが、私はそういうひとりに入りますが、そういう目的があってその為にやる、みたいな考え方ではだめだなってつくづく思います。

 

何かに達する為にやるとか、何か役に立つことの為にやるとか、この「為に」やるというのは、やる事そのものが全然楽しくならないのでダメだと思います。

 

結局この「為に」やるというのは、何かに達したらどうなるのか、役に立ったらどうなるのか、という達したその後の事が、また問題になってしまいます。そして、その状態に達しても、その状態からまた次の何かに向かって行かないといけなくなって、ずっと、何かの為にやり続けるというループになってしまいます。このループは、結局、ずっと楽しくありません。

 

そういう意味で、大事な事は、何かの目的の為に何かをやるのではなく、何かをやるそのものが目的である必要があるという事です。要は、やるというプロセスそのものが好きな事であり、やりたい事であるという事です。

 

好きな事、やりたい事って、趣味みたいに感じられるもので良いんだと思います。例えば、映画を観るのが好きなら、それが好きな事、やりたい事、で良いんだと思います。

 

何か、意味ある事、役に立つ事、に囚われている人は、趣味みたいな遊びは意味がないからいけないと退けがちなわけですが、そんな事はどうでもいいんです。本当は。

 

むしろ、好きな事、やりたい事っていうのは、それそのものに意味があったり目的だったりするから、何か意味ある事の為の「手段」として好きな事、やりたい事を設定する必要はないんです。

 

こういう事って当たり前の事のようですが、好きな事、やりたい事が見つけられない時というのは、こういう状態になっています。簡単な事ですが、大事な事です。

 

好きな事、やりたい事というのは、何も大袈裟な事である必要はなく、小さな事でいいんです。上に挙げた、映画を観る、ドラマを観る、みたいな事です。実際、映画を観る事なんか、今や当たり前の事になっていますが、100年前にはなかったわけですから、実は凄い事なんです。その意味では、ドラマだって同じです。昔だと映画でしか観られなかったようなものが、自宅のテレビでドラマという形式で観られるんです。凄い事です。

 

そういうわけで、好きな事、やりたい事って案外見つけるのは難しく感じられますが、それらに意味や目的をつなげる必要はなく、それそのものを楽しめば良いんです。趣味みたいな事、小さな事で十分です。