人間は、自分でどうにかして生きていくのか、あるいは、人と何とか生きていくのか、どのような構えで生きていくのかを考えるわけです。
人は、独りでは生きていけないのは確かで、人に一切頼ること無しに生きていこうとするのは、あまりに現実的でなく、場合によっては、結果的にガッツリ人に頼る事になり得ます。
だから、独りで生きていこうとするなら、なおの事、人にどのように頼るのか、つまり、人とどのように生きていくのか、という事を真剣に、というか、現実的に考える事の方が大事なのかもしれません。
一方で、そもそも、独りで生きていく事なんてできないんだから、人とどうやって生きていくのか、それは、配偶者や家族と、というわけではなく、それ以外の人とのつながりの中で、どうやって生きていくのか、そのような事を考える事を念頭に入れながら生きていこうとするわけです。
現代は、仕事場でも、地域でも、趣味でも、遊びでも、友人でも、何でも、人とのつながり方はたくさんあって、どのようにつながるのか、どのつながりを選択するのか、色々と考え方はあるわけです。
ただ、あまりに、そのような生き方を前提にし過ぎると、独りで生きていくという構えが足りなくなり、人がいなければ生きていけない、そんな気もしてきます。
生きていくという事は、自分でどうやって生きていくのか、という事を、もっと自分と向き合って生きていくべきではないのか、と考えたりもするわけです。
人間はそもそも、個体としては一人であって、結局、最期はいかようにも独りで死んでいくわけだから、独りで生きていくという事が基本であるかもしれないわけです。
多くの時間は独りの時間として過ごすわけです。
ですが、一方で人間は集団で、人とともに生きて、人とともにつながりを持って生存してきた生き物であって、そこに自分とか個人とかそんなものは無かったかもしれないわけです。
集団の中の自分であり、集団の中の一要素にすぎなかったかもしれないわけです。そのようにして生き延びてきて、個人としての自分、1人の人間としての自分なんて、割と最近ことかもしれません。
割と最近の近代以降の事かもしれません。
ですから、そもそも独りで生きていこうとする事自体が、人類にとっては比較的最近の試みかもしれません。
とは言え、現代は、近代以降、人間である自分という存在は確かにそこにあって多くの時間は独りとしての自分の時間として過ごしていて、他の人とは別にこの世界で自分はどうやって生きていくのか、放り投げられているのは確かであるわけです。
どうやって生き、どうやって死ぬのか、それは、一人の人間としては、考えないわけにはいかないわけです。