毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

他人の為の自分と自分らしい自分を適度に演じ分ける。

現代社会では、他人の為の自分と、自分らしい自分の2人の自分を上手く使い分けながら生きていく側面があるわけですが、それほど徹底する必要はありません。構造的にはそうなっているという話で、それをあまりに厳格に実践しようとすると、それはそれで苦しいものになってしまいます。

 

仕事をしていると、明らかに、他人の為の自分を演じないといけない。そのような場面は多いわけですが、仕事の全てがそうというわけでもありません。自分らしさを保ったまま仕事をしている人もいます。自分らしさを保ったまま仕事が出来る職種もあります。ただ、傾向としては、仕事用の自分、社会用の自分、他人の為の自分を求められるのは確かです。ですが、それがすべてではありません。

 

また、自分らしさとも言いますが、それも固定的ではありません。自分らしさ自体も変容可能です。変容している事自体も、人間性のうちです。人間は学習する事で変容していく生き物ですから、自分らしさすらもいつだって変えて良いのです。今までの自分に居心地が悪くなったら、いつだって変えても良いのです。とは言え、いつだって、自分らしい自分を追求してよいのです。

 

そもそも、諸法無我の観点からすれば、自分自身だというものはありません。永久不滅の自分、本質としての自分などというものはありません。その観点からすれば、自分を取り囲む環境としての他人に合わせながら、また、他人の期待に応えながら、自分自身を他人の為に演じる。その側面は、どうしたってあります。それ自体は良い事でも悪い事でもなく、人間社会を円滑にやっていく為にはそうなりますし、自分自身もそうでしか存在できません。

 

自分自身の居心地の良さ、安心感という点から、自分自身を客観的に眺めたとき、自分で自分自身を居心地良く、安心感のあるような状態にしてあげるのも、また可能です。他人の為の自分と同様に、自分の為の自分になるという事です。そのようにして、出来る限り、自分自身が居心地良くあれるようにする事も可能というわけです。

 

他人の為の自分というのも、悪いものでもありません。時によっては心地良くもあります。自分を滅して、他人の為にある心地良さ。そのような自分にもなれるのが人間の凄さです。

 

確かに現代社会では特に、他人の為の自分と自分らしい自分の2人の自分で生きていく傾向はあります。ですが、それに縛られずに、その事をベースにしながらも、無理せずフレキシブルに生きていくのが良いと思います。