毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

二人の自分。人の為の自分と自分がこうありたいと思う自分。

この世の中で生きていると、なかなか自分らしく生きていけない。そのように感じる事ってあると思います。このように言うと、何か漠然としていて、「そりゃそうだ。」という感じになりますが、実際、「この世の中」というより、「この社会」で生きていると、社会の構造上というか、社会システム上、自分らしく生きるのは難しい局面というのが多いように思います。

 

特に、仕事をしていると、自分がこうありたい、もしくは、自分がこうしたい、というのとは関係なく、色んな事を求められると感じます。実際、自分が思うのとは関係なく、仕事上の色んな役割もたくさんあるし、人からもそのような役割を果たす事を求められます。仕事の事を思えば、それは当たり前という気もします。

 

ですが、実際には、自分がこうありたいとは関係なく色んな事を求められる場面というのは、仕事に限った事ではありません。ありとあらゆる場面で、自分が望んでいるのとは関係のない自分を求められます。そして、もはやその自分こそが自分だと認識されたりもします。

 

特に現代は、社会の中では、求められる自分という場面がたくさんあって、社会の為の自分、他人の為の自分に自分は押し込められます。それは良いとか悪いとかそういう事と関係なく、そのような状況になります。

 

実際、社会とはそのように構成されていて、他の誰かのための社会を構成する一員として、自分が組み込まれています。誰かの為のその他大勢の人たちによって、社会は構成されているわけです。要は、自分というのは、社会の中で、他人の為の自分なわけです。

 

一方で、自分は自分なわけで、自分はこうありたいと思っているし、居心地良くありたいと思っています。でないと、こうありたくない自分だけになってしまって、自分の身が持ちません。

 

とは言え、自分がこうありたいと思うように生きられない事はありません。社会は、自分がこうありたいと望めば、それに応えられるようにも作られています。他の人たちが自分の為に社会を作っているわけです。社会の一員として、自分の為にそこに居るわけです。

 

その意味で、自分というのは、自分の思うように居て良いのです。その為の社会でもあり、その為の他人でもあります。

 

そう考えると、自分というのは、この現代の社会の中で、二人の自分が存在する事になります。

 

他人の為の自分と、自分がこうありたいと思う自分。

 

どちらか一方ではありません。両方です。二重構造としての自分です。自分は、人の為に求められ、一方で、もう一人の自分は自分の為に居て良いという事です。その為に他の人たちがいます。現代社会とは、そのような社会です。