毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

問題を解決する事が喜びにつながる。解決できないなら諦めたらいい。

人間生きていたら、色んな問題にぶち当たりします。解決できる問題もあるし、できない問題もあります。解決できない問題がずっとできないままなのはストレスで苦しいですが、解決出来ればスッキリします。心地良さがもたらされます。

 

生きていると、だんだん解決できない問題が増えてきます。解決できない問題だらけになると、もはやお手上げ状態になって解決する事を諦めてしまいます。そして、全て諦めてしまうと、何も問題を解決できなくなります。というか、解決しなくなります。人間、何も解決しなくなったら、それはそれで苦しく、生きていけなくなります。

 

問題と出会って、それに挑んで、それを解決する。解決出来なかったり、解決に苦労したりすると、それはストレスになります。それでも果敢に問題にチャレンジして解決できると、ストレスが解消されて、喜びを感じます。

 

これでいいんです。これこそ人間らしい営みです。

 

問題は嫌な事だと感じてしまいます。ですが、人間は問題を解決する生き物です。問題は、自分だけの問題であり、その問題を自分で解決する。まさに、人間とはそのようにして生きていくものです。

 

ストレスもそうです。ストレスも嫌な事だと感じます。ですが、ストレスを感じながらストレスに耐え、そして、問題を解決する事でストレスを解消するんです。それでいいんです。

 

ただ、現実問題、問題が多くなり過ぎて、ほとんどの問題が解決できません。この事が、ストレスを過剰にして、無気力、無力に追い込んでしまいます。

 

度を越したストレスは、むしろ悪く、生きるのを困難にします。ストレスには範囲というものがあるんです。上限というものがあるんです。それを超えないようにストレスに耐える。そういう事が重要なわけです。

 

だから、全ての問題は解決出来なくていいんです。解決できない多くの問題については、それによってストレスをため込むのではなく、それらの問題を放棄してしまえばいいんです。諦めてしまえばいいんです。

 

諦める事も大事です。

 

ですが、諦めてばかりでは、人間生きていけませんから、問題の幾つかは、チャレンジするんです。そして必ず、何らかの問題については解決するんです。その事が大切です。

 

基本として、人間は問題を解決する生き物です。ストレスを感じながらも問題を解決したらいいんです。ですが、全ての問題を解決する必要はありません。解決出来ない問題は諦めて、自分がチャレンジすべき問題についてのみ、解決したらいいんです。それがきっと喜びにつながります。

どうせ煩悩に苛まれるなら、思考を積極的に展開させる。

考える事は、人は自然にやってしまう事です。頭は放っておいても何らかの事について考えてしまいます。だったら良い事に頭を使うようにした方が良い。そう思います。

 

思考を放っておくと良くない事の1つに、煩悩があります。読んで字のごとく、解決にもつながらない事をだらだらと思い悩み続ける事です。

 

人はネガティブな事に囚われやすいですから、嫌な事について考え続けてしまいます。そして、嫌な事を勝手に思考で展開させてしまいます。その事によって、1人で勝手によりつらくなって、そして、疲れてしまいます。良くない事です。

 

どうせ何かを考えずにはおれず、そして煩悩に苛まれるくらいだったら、もっと積極的に考えている事について生産的に考えた方が良い。そう思います。

 

放っておくと考えてしまう何かが、しょうもない事、ネガティブにしかならない事だったりするくらいなら、その考えてしまう何かについても、ちゃんと考えた方が良いわけです。

 

好きな事、自分にとって意味ある事、興味のある事、そういう事について考えた方が良いわけです。

 

そして、だらだらと思考してしまう事に任せず、積極的に、考えを展開させることが大切です。せっかく考えるんですから、ぼうっとではなく、本気に考えるという事です。

 

そのようにして意識的に考えていると、気が付いたら面白い考えに至ったりします。そのような事になれば、きっと楽しいはずです。

 

そもそも、考えるという事は、楽しい事でもあります。思考を能動的に展開させていく事によって、今まで思いつかなったような事に思い至ったりして、そして、思わぬ発見にもつながります。それは思考の喜びでもあります。

 

元々考える事が好きな人なら、そういう事をいつも積極的にやったらいいんです。無駄に、ネガティブな事に無意識に囚われて、意味のないむしろ自分を痛めつけるような思考、つまり煩悩に苛まれるくらいだったら、絶対に積極的に思考を展開させた方が良いわけです。

 

そして、思考する事の喜びをよく知っておくことです。思考する事の喜びの体験が少ないと、思考を積極的に行おうとしません。煩悩まみれになります。それは、積極的に思考していない証拠です。勿体ない事です。

 

ですから、どうせ何かを無意識に考えて苦しくなるくらいなら、また、どうせ煩悩に苛まれるくらいなら、もっと積極的に、意識的に、思考を展開させる事です。そして、思考する対象についてもちゃんと設定する事です。そうする事で、きっと思考する喜びにつながります。

何かについて明らかにする事が好きな人。不明な事を解決する事が喜び。

人にはいろんな特性があるように思います。何かを作る事が好きな人もいれば、何かを調べる事が好きな人もいます。また、何かについてただ考える事が好きな人もいます。

 

例えば、何かについて明らかにする事が好きという場合、それを明らかにしてどうするのかという事はありますが、ただとにかく何かについて気になってしまって、明らかにしたくてしょうがなくなったら、それをどうにかするしかありません。そういう事が好きっていう人もけっこういると思います。

 

何かについて明らかにしたいというのは、その何かについて不明である事、よく分からない事が嫌いという言い方も出来るのかもしれません。

 

何かについて不明なままである事が耐えられないという事かもしれません。不明なままというのが耐えられなくてつらいから、明らかにしたい、明らかにしなければならない、そういう事だったりするのかもしれません。

 

そういう事はどうあれ、いずれにしても、その何かについて明らかにしたいわけですから、そうせざるを得ないわけです。

 

だから、その不明な事、よく分からない事象、解決されていない問題、気になる事、そういう事が目の前に現れると、もしくは、頭の中に湧いてくると、それについて思考を巡らざるを得なくなる。そういう事だと思います。

 

その不明な状態、混沌とした状態、不安定な状態というのは、不安な状態とも言え、苦しみとも言えるわけです。

 

ですから、それが明らかになれば、苦しみから解放されるわけで、ある意味、喜びと感じられるかもしれません。

 

霧が晴れたように感じるかもしれないし、清々しく感じられるかもしれないし、清らかに感じられるかもしれません。その意味で、それはそのまま心の状態と関連があるのかもしれません。

 

そのような意味でも、よく分からない事はそのままには出来ないし、問題は解決しなければしょうがないわけです。それは苦しみでもあり、喜びにもなるわけです。

 

知的好奇心みたいなものも、そのような苦しみと喜びの表裏一体となったものと強く関係しているように思います。

 

そして、結局、そのような人というのは、何かについて明らかにするという事が好きなのであり、よく分からない事や問題を解決するのがという事が好きという事です。

 

ただ、それをする事によって、喜びは多少得られるし、充実感は得られるし、幸せでいられるし、それによって多少は生きられるように感じられるのかもしれません。というより、それによって何とかこれまでも、そして、これからも生きていられるのかもしれません。

過剰な欲望はストレスが原因。瞑想によって心を鎮める。

日々人は、色んな欲望で苛まれていると思います。場合によっては苛まれていると認識していないかもしれません。

 

お酒を飲みたくてしょうがない、止められない、とか、タバコを止められない。お菓子を食べたくてしょうがない。こういうのは、分かりやすい欲望だと思います。

 

他にも、あれが欲しいこれが欲しい。車が欲しい、家が欲しい。また、お金がもっと欲しい、出世したい、評価されたい、色々あります。

 

こういった欲望は人間なら普通にあるかもしれませんが、ひょっとしたら過剰になっているかもしれません。

 

過剰はさらなる過剰を生み、例えば、これ以上摂らなくてもいい砂糖を摂って、要は、甘いお菓子を食べ過ぎても、良い事は無いわけです。

 

少しのお菓子ならそんなに問題ないかもしれませんが、なかなかこういった事は少しでは済まず、過剰になりがちなわけです。

 

だからと言って、これらの欲望が良くないからと言って、無理に抑えようとしても、問題は解決しません。抑圧しても、欲望はかえってさらに膨らんで、所謂リバウンドみたいなことが起こったりします。無理な抑圧や我慢は有効ではないわけです。

 

欲望の原因はストレスだったりして、そのストレスが解決しない限り、欲望は減らないわけです。

 

生きていると、ストレスは容易には無くなりません。とは言え、ストレスを放っておくこともできません。ストレスの原因となるものを何とか取り除かなければなりません。

 

ですが、これも容易ではない。抱えているストレスの問題が解決して解消されるなら、それこそ問題なんてありません。

 

とは言え、ストレスの問題は何とかしたいわけですので、その為には、まずは心を鎮める。冷静になる。とても大事です。

 

そこで大事になるのが、瞑想です。瞑想と言っても、要は自分と落ち着いて向き合うわけです。

 

ストレスはなかなか無くならないですが、自分の中の煩悩によってストレスを持続しがちです。また、膨らませがちです。

 

世の中の情報や、それこそ暇つぶしとしてスマホブラウジングなどは、煩悩と相性が良すぎる為、さらに煩悩に苦しくなってしまいます。

 

だから、むしろ、情報断ち、スマホ断ち、外界断ちといった感じで、瞑想をして、何も情報を入れない、何もしない、そして、心を穏やかにする、身体を穏やかにする。そういう事です。

 

そうする事で、少しずつ心が休まってきて、落ち着いてきて、ストレスについても向き合いやすくなるし、身体も休まってきます。そのような状態が大切です。

 

そのようにしていく事によって、気が付いたら過剰な欲望の暴走が止められるようになってきます。

 

そういうわけで、過剰の欲望を止められない時、その原因はストレスなわけですが、それを何とかするには瞑想をする。煩悩を静めて、心を鎮める。そうする事で、落ち着いてストレスと向き合えるようになって、同時に身体も休まる。

 

それが、過剰な欲望を抑える事につながります。

調子が悪い時は疲れている事を疑う。身体が休もうとしている事をちゃんと聞く。

何か調子が出ない。そう感じる時ってあると思います。気持ちが乗らない。やる気が出ない。要は疲れている。

 

ですが、物凄く疲れているわけでもない。少し疲れているくらいだから、身体は動く。明日も今日と同じように会社に行ける。でも、疲れている。

 

そういったあいまいな感じ。よくあると思います。日常茶飯事だと思います。

 

結局仕事に行けちゃったり、次の日も同じように過ごせちゃったりしちゃうから、身体が疲れているっていう事に気付けない。

 

でも、調子は悪いわけです。調子が上がらないわけです。

 

そういう意味で、サインは出ている。ずっと出ている。ですが、気付けない。疲れているという事に。

 

そういうわけですから、調子が悪い時というのは、まずは、疲れているんだなと気付く事が大事です。そのように自覚することが大事です。

 

頭を使って自覚したいわけですが、ここでの問題は、頭ではその事をなかなか分かってあげられないわけです。

 

一方、身体は疲れているという事は実は分かっているんです。分かっていないのは頭なんです。

 

人間、どうしても、頭で身体を操縦しようとしてしまいますから、明らかに身体が疲弊して休みが必要なのに、頭はこの事を認識しない。認識出来ないんです。困ったものです。

 

だから、調子が悪いと思ったら、疲れている事をちゃんと認識する事ですが、より正確に言うと、身体が疲れているという事を認識するという事です。

 

身体の状態について冷静に観察してみれば分かりますが、身体のあちこちが疲れているはずです。痛んでいるはずです。

 

呼吸も浅いとか、肩こりもひどいとか、姿勢が悪いとか、お腹が張っているとか、足が痛いとか、色々症状は出ているはずです。

 

そういう意味で、身体の状態についてより積極的に認識してあげる事です。そうすると、すぐに疲れていると分かります。

 

そうしてあげる事で、ようやく分かります。身体は休みを必要としている。というか、身体はすでに休もうとしている。

 

休もうとしていないのは、頭だけです。頭だけが、身体は休もうとしているのに、明日も今日と同じく会社に行こうとしているわけです。活動をそのまま続けようとしているわけです。

 

そうではなく、身体が休もうとしているわけですから、それに素直に従う事です。それをちゃんと聞く事です。

 

調子が悪いと感じるのはサインです。身体が疲れているサインです。そして、きっと身体は休もうとしています。ですから、身体を休ませてあげてください。頭で決めない。大事です。

良かった事の振り返りの習慣でいつも元気でいられる。

人は放っておくと、悪い事ばかり考えてしまいます。人間の性質ですからしょうがありません。ですが、それでは、どんどんネガティブになって疲弊してしまいます。ストレスでいっぱいになり、疲れがたまって、鬱っぽくなります。

 

ですから、日々の良かった事についていつも知るようにする事が大切です。

 

その為には、毎日気が付いたら昨日の良かった事について思い出すことが大切です。きっと忘れています。

 

いつも起こっている、小さな良かった事をきちんと振り返る、そういう習慣はとても大切です。

 

毎日、前日の事について振り返ってみる、または、1日の終わりに、今日1日の良かった事について振り返ってみる。そういう習慣です。

 

こういった事を、意識的にやっていかないと、人間、良かった事を全然振り返りません。自然とそういう事はやりません。

 

だから、意識的に、習慣にする事が大切です。習慣化すれば、そのような振り返りが日常になります。日常化する事がとても大事なわけです。

 

習慣は、生活の土台、または、人生の土台ですから、土台として、良かった事の振り返りの習慣を定着させていく。そうする事で、いつも自分に起こっている良かった事を認識する事が出来て、その結果、幸せでいられる。そういう事です。

 

もちろん、幸せなだけではありません。良かった事をいつも認識していられるなら、きっと元気です。鬱からは遠ざかり、いつも元気を維持できます。

 

良かった事について考えていると、きっとセロトニンもたくさん分泌されて、元気でいられるはずです。

 

何もしなければ、いつもネガティブで、いつも鬱っぽくなって、元気なんか出ません。元気のない日常になってしまいます。

 

そうではなく、いつも良かった事を振り返ってそういった事を認識していると、日常的に元気でいられるという事です。

 

些細な事をかまいません。良かった事、嬉しかった事、楽しかった事、面白かった事、そういった事はたくさんあります。ちょっとした事かもしれませんが、たくさん毎日の中に散りばめられています。

 

そういった事をちゃんといつも認識する。そういう事が幸せでいられるコツだし、元気でいられるコツでもあります。

 

習慣になっていなければ、確かにそういう事をするのは面倒な事です。ですが、習慣化してしまえば、面倒でも何でもありません。いつもの事ですから。

 

そして、その習慣を土台とする事で、いつも良かった事を認識していられて、幸せでいられます。そして、元気でいられます。

色んな問題は、とりあえずいったん全部飲み込む。

日々色んな事があります。問題はたくさんあります。嫌な事、気になる事、不安な事、悩み事、いつでもいっぱいあります。

 

そういった事を、全部まとめて解決したい。きれいさっぱりしたい。まとめてでなくても、ひとつずつ片付けていきたい。

 

ですが、人間、そんな事は出来ません。片付けても、片付けても、次から次へと問題は出てきます。

 

日々の色んな問題というのは、確かに、自分以外の何処かからやってきたりはしますが、一方でそれらは、自分自ら湧いてきたりしている事もあります。

 

人によっては問題にしないような事を、自分は問題にしているかもしれません。逆に、自分は問題にしていない事を、他の人は問題にしているかもしれません。

 

そういう意味では、自分は世界のみんなと同じ問題を抱えているというほどでもなく、自分特有の問題を、ただたくさん抱えているわけです。要はそれって、自分に依るという事です。

 

自分自身だからこそ、その問題を抱えているわけで、そう考えると、結局は自分次第という事になります。

 

言い方を変えれば、ただひとり、煩悩に苛まれているという事とも言えます。

 

煩悩に対しては、いかにそれらの煩悩を解決するかというのではなく、どう滅するか、です。それがポイントです。人間ですから、そのような問題は解決なんかできないんです。というか、そもそもしないんです。

 

人は色んな問題を抱えます。それはもはや自分のせいです。自分だからです。さらに言うなら、人間だからです。

 

だから、問題は解決しようとせず、全部、いったん飲み込んだらいいんです。いったん飲み込んで、そして、放っておくんです。明日になったらどうせ状況も変わってますから。

 

確かに気にはなるでしょうが、それでも、全部飲み込んで、解決しないまま、それでも進んでいくんです。結局問題を作り出しているのは自分なんですから、それらの問題はいったん飲み込んで無い事にしたらいいんです。

 

問題は、解決されるときは解決されます。解決されるときは、その時突然やってきて、思いもよらない形で解決されます。

 

解決されないかもしれないけど、問題自体が消滅している場合もあります。

 

または、知らず知らずのうちに、解決されている場合もあります。

 

そんな事ですから、いちいちひとつずつ問題を拾い上げて解決しようとしない。放っておく。いったん飲み込んでしまう。それでいいんです。

 

問題は全部いったん飲み込む事によって、とりあえず無い事に出来ます。それが、結局は、人間としての問題の解決方法なんです。