毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

言葉。差異の体系と諸法無我。

言葉の哲学として、ソシュール言語学がありますが、とても面白い考え方だと思っています。

 

言葉、この場合、単語ですが、様々な言葉を比較すると、ある言葉と他の言葉の間に、違いしかない事が見えてくるわけですが、つまり差異しかないという事です。この差異が、ひとつひとつの異なった言葉を浮かび上がらせてくるわけです。

 

ひとつひとつで独立した言葉=単語から成る集合体として体系立っているように見えて、別の側面では、ひとつひとつ全く同じものがない言葉、そして、言葉と言葉の間の差異が、多数集まって体系立っているという事です。その意味で、差異の体系と呼べるわけです。この捉え方はとても面白いと思います。

 

このように、言葉とは、言葉と言葉の違いから各々単独の言葉として浮かび上がるものであって、互いに埋め合わせるような関係なわけです。相補的であり、相対的であるわけです。

 

ですが、この相対的な関係によってはじめて言葉としての体系が成立しているわけで、このような体系こそ、有機的な体系と呼べるわけです。言葉同士、常に互いを必要としているわけです。

 

生命的なものは有機的であるとも言えるわけで、言葉もそのような意味で有機的であり、生命的であり、そして、人間的と言えるわけです。

 

言葉が互いに埋め合わせた相補的、相対的な関係という事は、つまり、それ単体では成立しないという事でもあります。

 

「歩く」とは何ですか、というと、正確に言おうとすると「歩く」以外に表現できないわけで、とは言え、それでは何の説明にもなりません。それ以外の言葉、足を使って移動する、地面の上を歩く、など他の言葉を使って説明しようとするわけであって、言い換えれば、他の言葉で説明しようとしても言い尽くせないわけです。

 

多くの言葉を使って説明する事によってより正確性を上げる事は出来ますが、ぴったりと「歩く」という言葉に一致させる事は出来ないわけです。

 

その意味で、言葉とは、それ単体では成立しないものであるという事です。それも、相補的、相対的、という事を指しています。

 

つまり、言葉単体では成立しえず、実体が無いという事でもあるわけです。それ自体に、実体とか本質とかそういったものはなく、普遍的なものは無いという事です。言葉はその意味で、関係性の中でしか存在しえないわけで、つまり、諸法無我という事です。

 

人間は全体性の中で諸法無我の存在であるわけで、言葉もまさに人間の性質と同等なわけです。

 

そういった相対的な関係からなる全体性というものが、有機的であり、生命的であると言えるわけです。