毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

ジャーナリングとともに。言葉と心と文明と。

ジャーナリングは、言葉とともにあり続けます。言葉を使い、言葉を紡ぎ、言葉を書き記す。書き留め続ける。

言葉は、頭の中の思考や想像の断片から湧いて出てきて、それらがノートに書き写されていくわけで、ジャーナリングはそのようにして成り立っているわけです。言葉は常に思考とともにあって、言葉が思考を展開させ、思考が言葉を生み出す。両方からの寄与と混ざり合いがあるわけです。互いに欠かせません。

言葉は、言語であり論理であり分析的であるわけで、それは記号的側面を持つ事を意味するわけです。

一方で、心とつながっているのも言葉の特徴であり、心の無いところに言葉は無いわけです。感情が言葉には張り付いているわけで、練り込まれているわけです。それが言葉かどうかは、人間だから分かるわけで、分かるのは心や感情が言葉のうちだからです。

その意味で、言葉は心と密接であり、心の一部であり、その上で、記号的側面を性質として取り込んでいるわけです。

また、言葉は、人類の作り出した、文化の代表格です。言葉との関わり自体が文化的活動であり、文化そのものであるわけです。そして、それは文明の一部であり、文明の発展のエンジンでもあるわけです。

文化や文明を維持し、発展させるものは、人間であるわけだから、人間としての心や感情を一部として成す言葉は、その具体的なものとしてそれらを支え、形作るわけです。

人類には歴史があり、思想があり、哲学があり、学問体系があり、知識の体系があるわけですが、それらすべては、言葉とともにあるわけで、言葉によりそれらを取り込み、抱きしめる事が可能となります。

言葉の記号的、あるいは、言語的性質は、コード的性質であり、データやデジタル的性質であるわけで、それらは、言葉から独立して、人から分離して振る舞いうるわけで、人類とは別に、何かを形作る事がもはや可能であるわけです。

場合によっては、それをコンピュータと言ったり、AIと言ったり、他にも様々な言い方をしうるわけですが、確かにそれらは、人間のうちにある心や感情と分離しても、コピーする形で、人間から独立して在る事が可能であるわけです。

ですが、人間は人間であり、人間は記号的性質を内包しつつもそのコアに心の性質があるわけで、その上で、言葉が自然と人工物との間にあって橋渡ししたり、混ぜ合わせたりして、文化や文明の営みを育み、栄えさせ続けるわけです。

その意味で、言葉は常に生成され、ジャーナリングはそのような言葉を使って、紡がれ、書き綴られ、書き留められ続けるわけです。