毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

未知こそ生きる事。

世の中は基本的に、未知の世界と言えます。そして、人は、この世界は未知だからこそ生きていけるとも言えるわけです。

 

未知というのは、「分からない」という事であって、不明だという事です。そして、人はとにかくこの「分からない」というのが嫌いなわけです。

 

「分からない」という状態が不安でしょうがないわけです。未知の世界、未知の状況、未知な存在、とにかく、未知が不安で恐怖でしょうがないわけです。

 

未知な未来。これも不安でしょうがないわけです。この先どうなるか分からない、そんな状態に皆放り投げられていて、不安でしょうがないから、この先足るはずのお金も足りないという不安に駆られて、貯め込めるだけ貯めようと必死になるわけです。

 

未来の為の備えも欠かせないわけです。お金もそうだし、資産運用もそうです。あらゆる備えの為に、今を必死に生きるわけです。そして、死にそうになっているわけです。とは言え、死にそうとか言いながら、結局生きる事にドリブンしているわけです。

 

逆に言うと、世界が未知に無くなったら、人間は生きていけないわけです。世界が未知でないという事は、全ては明確であって、この先どうなるかも分かっている世界なわけです。

 

未来も分かり切っているわけですから、その世界は必然的な世界なわけです。必然的に未来はこうなる、という事ですから、その意味で不安は無くなるわけで、未来の為に過剰にお金を貯める事に駆り立てられる事も無いし、必要以上に未来の一切の備えをする必要もないんです。

 

いつ何が起こるかもわかっていますし、いつ死ぬかもわかっています。何もかも分かっているわけです。

 

ですが、そんな必然的な世界は、つまらないわけです。自由意志は無いわけです。自分の未来も人生も決まっているわけですから、その運命からは逃れられないわけです。抗う事は出来ないわけです。決まっていますから。いつ死ぬかは決まっているわけだから、死刑執行日が決まっているのと同じなわけです。

 

それは退屈であり、絶望でもあるわけです。自分の未来や人生を、自ら切り開く事が出来ないわけです。何をしても今日はどうなり、明日はどうなるかは変わらないわけですから、そこに、努力や思いは一切関係なわけです。

 

それは、生きる為にもがく事のない世界であり、生きようとしない世界であり、生きていない世界であり、つまり、死んでいる世界なわけです。

 

ですから、世界はむしろ未知で良くて、でも、残念ながら、不安に駆られるわけですが、それで良くて、未知の未来に不安を感じながら、生きる事に苦しみ、生きる事に備え、未来を切り開こうとするわけです。

 

つまり、未知こそ人生であり、未知こそ生であり、未知こそ生きるという事です。