その日が充実するかどうかは、本当にその日が過ぎ去ってみなければ分からない。人というのは、どうにも色んな事を予測しがちだけど、その予測はたいてい当たらない。
「今日という日がつまらない日になりそう」というネガティブな予測は、予測した分だけ損をして、その予測に負けてそれに従って過ごしてしまうと、それこそ予測通りになってしまう。そして、予測通りになった1日を振り返って、その事実を経験として学習しても、それは少なくとも、幸せの経験にならない。不幸の経験になって、不幸の学習になるだけ。学習する生き物である人間にとっては、全く役に立たない、無意味どころか有害な予測です。だったら最初からそんな予測に従った過ごし方なんかしない方がいい。そう思います。
予測そのものを否定しているわけではありません。人間は予測する生き物。その性質自体を否定しているわけではありません。
その予測が役に立つ事もあるし、予測が自分の生き方の手助けにもなります。ネガティブな予測は、何らかの危険を回避する事につながります。その意味でも、予測自体を無意味とまでは言いません。
ですが、予測通りになる場合もあれば、予測通りにならない場合もあるのです。だったら、ネガティブな予測に対して、その予測にしたがってネガティブな1日を過ごし、そのままネガティブな事実、ネガティブな経験、ネガティブな学習を積み重ねるのは、どうにも勿体ない気がします。
予測に従うのは、不自由な行為です。ネガティブな予測に従うのは、不自由な行為による不幸です。繰り返しですが、だったら、ネガティブな予測に従わなければいい。少なくとも、自由な行為と言えます。自由な行為は、その行為に伴う結果や事実を、自分の事として引き受けられます。結果が悪くても引き受けられます。自分に基づく自由な行為ですから。そして、もし結果が良ければ、ネガティブな予測に反して、自分の自由の行為によって、ポジティブな結果、ポジティブな事実を獲得した事になります。それは、ポジティブな経験となって、ポジティブな学習になります。自由の行為による学習は、幸せにつながります。
私たち人間の学習は、予測から学ぶというよりかは、結果や事実、経験から学ぶことが出来ます。学習する人間にとっては、経験のプロセスが重要です。予測はあくまで予測です。
心がけられる事は、いつだって、自由の行為です。自由の行為が、経験を良い学習に出来ます。予測に負けない自由の行為。とても大事です。