毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

どうやって生きていくかという難題。

人は、「どうやって生きていくか」という難題を持っています。ここで言っている難題とは問題とも言い換えられ、でも、問題の中では難しい問題という意味で、難題と言っています。

まず、人間はいつか必ず死ぬ、という事が、問題を難題に仕立て上げている要因と言えます。

もし、人が死なないとしたら、ここで抱えている「どうやって生きていくか」という難題は、大きく変わります。この先死なないんですから、どうやって生きていったらいいだろうか、という今抱えている悩み方は形を変えるわけです。

人は、いずれ死ぬから、その内容は個体差あれど、難題になるわけです。

いずれ死ぬのに、その死まで、限定的に生きていくわけで、死ぬぎりぎりまで、あるいは、生きているぎりぎりまで、どうやって生きていくか、という事です。

そして、その死が、いつ来るか分からない、これも、難題にしているひとつと言えます。

いつ来るか分かっているなら、その死のぎりぎりまでにこうする、という事が考えられるわけですが、それが分からないから、どのように生きていこうか、と考えるわけです。

ただ、現時点において、人間はデータ的には、最長でも120歳までしか生きられない、言い方を変えると、120歳までには死ぬわけですから、それ以上の事は考えなくてもいいわけです。

ですが、120歳までの人生設計をしていいのか、と言った場合、もっと早く死が訪れる事は当然あるわけで、というより、確率的には、もっと早く訪れるわけで、その意味で、人生の長さ次第で、人生が変わってしまう、そして、人生設計も複雑になる、という事です。

ですから、考えられる人生があまりに多様で、ほぼ無限で、そして、人生設計もほぼ無限である事が、どうやって生きていくか、を難題にしているわけです。

また、生き方によって、人生が幸福にも不幸にもなりうるという事も、難題にしています。どのように生きても絶対幸福になるんだったら、そんなに悩まなくてもいいわけですが、幸福にもなりうるし不幸になりうるからこそ、また、悩むわけです。

当然人は不幸な状態で生きたくはないわけですから、悩み苦しむわけです。そして、どうやって生きるかが、難題になるわけです。

人は、あらゆる生き方が可能で、あらゆる死に方が可能です。ですが、寿命をはじめとして、あらゆる制約があるわけです。ですが、生き方によっては人生を変えられるという事もあります。ですから、どうやって生きていくか、は難題なわけです。