毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

意識について考える。世界を「観る」態度と観自在菩薩や涅槃。

私は、自分という生の中心的な部分、本質のようなものを、「意識」と捉えて考えを進めています。今回は特に、意識の「観る」という態度が、仏教でいうところの「観自在菩薩」という考え方につながっているのではないか、という事についてお話ししたいと思います。

 

自分自身という意味での「意識」は、ただはじめから在るのではなく、身体の中に生まれたのであって、もちろん身体も身体単体で存在しているわけではないので、結局のところ、世界が身体を通じて自分という意識を生んだというように考えられると思っています。少し言い方を変えると、世界を知覚するという身体の性質や認知するという身体の性質によって、世界は身体を通じて意識を生じさせているという事です。

 

意識としての自分が、世界を「観る」という態度は、世界が本来自分を観ていて事が前提として会って、世界が自分を観ているという事に対して自分が観て応えるという、世界と自分との間には「観る」「観られる」という対の関係が存在しているというように思っています。

 

この場合、自分の内側の内的な世界と、自分の外側の世界を区別する世界の捉え方ではなく、生物から成る身体の中の意識の視点から、意識を自分と捉えて、自分と世界との相対する関係という事を言っています。

 

だから、世界を「観る」態度は、世界によって「観られる」という事を前提としていて、世界との相対する関係が「観る」態度によってすでに成立しています。

 

例えば「応える」という態度も、似たような意味のように感じます。何かドアの向こう、壁の向こうからコンコンと音がしてきたので、その音にコンコンと音で「応える」。このような態度は、世界に応えようとする態度であり、相手に応えようとする態度のように思います。

 

このように、「観る」「応える」という態度は、何か意識を安定化させる態度のように感じます。その意味では、世界との関係は、自分以外の誰かとの関係でもあり、自分自身との関係とも言え、世界には色んな種類のものが含まれています。どれも、自分自身と対を形成するものです。

 

セルフコンパッションというものがありますが、これは、自分と向き合って、自分自身を認めて、そのまま受容する、そのような態度の事で、自分の中での相対する関係という意味でこの事を言っているように思います。

 

マインドフルネス瞑想も、基本的には同じだと思います。意識としての自分が、自分という世界と向き合って、ただ静かに「観る」という態度です。心が落ち着きます。

 

仏教には、「観自在菩薩」という言葉があります。普通に調べると、「観音様」の事を指すようですが、意味としては、「苦しみから解放された状態もしくは境地」と言えると思います。それはさらに言うと、涅槃を指していて、悟りの境地のような事を言っていると感じます。それが、意識の安定化に近い状態ではないかと思います。

 

菩薩とは、ここで世界の事であり、自分という意識を与えてくれたものと考えると、意識が世界と向き合う態度、言い換えると、世界を観る態度は、まさに、観自在菩薩という意味ではないかと思います。つまり、「意識の安定化」と言っているものは、涅槃であり、悟りの境地という事につながるように感じます。

 

今回は、意識について、自分と世界が相対する関係、つまり、世界を観る態度について考えてみました。さらに、仏教でいうところ「観自在菩薩」との関係性について探ってみました。何か「観る」と態度、観察するという態度が、意識に安定化につながっているように感じていたので、それが仏教の「観自在菩薩」、「涅槃」を意味するものだと考えると、「涅槃」=「苦しみから解放された境地」が仏教においても最も大事であるという点で、納得できるように感じています。